神の愛の取り扱いはわたしたちを彼の聖にあずかる者とならせる(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヘブル12:11 どの取り扱いも、その時は喜ばしいこととは思われず、むしろ悲 しいことと思われます。しかし、後になると、それによって訓練された者たちに、 平安の義の実を結ばせます。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 刑罰と取り扱いには大きな違いがあります。神がご自身の子供たちを取り扱うこ とは、罰することではありません。神が彼らを懲らしめる時でさえ、この懲らし めは刑罰ではなく、取り扱いです。取り扱いには明確な目的があります。それは、 わたしたちが神の聖にあずかるようにし、そして日々愚かな生活を送らないこと です。クリスチャンは、主イエスを信じた後、その救いを失うことはなくても、 神から厳しい懲らしめを受けるかもしれません。救われた後、クリスチャンは何 でも自分の好きなことができるなどと、決して言ってはなりません。聖書はわた したちにはっきりと告げていますが、クリスチャンは救われた後、たとえ敗北し て倒されるとしても、永遠に滅びることはなく、また永遠の命を失うこともあり ません。しかし、彼は今日、この地上において神の懲らしめを受けるでしょう。 わたしたちは永遠に救われているのだから、この世で気ままに生活をしても構わ ないなどと誤解してはいけません。もしあるクリスチャンが自分の肉の欲をほし いままにして、罪を犯し、汚れに陥り、神の聖にあずからないなら、神は御手を 伸ばして、その人の環境、家庭、健康、将来の計画などを通して、そのような人 を取り扱われるでしょう。彼は家庭でさまざまな困難に出遭ったり、多くの病や 不幸を環境の中で経験するかもしれません。これらの不幸が降りかかるのを許し ておられる神の目的は、人を罰することにあるのではありません。これらの苦し いことは、人につらい思いをさせるためにあるのでなく、神の聖にあずからせる ためであり、また神の召しの恵みを受けるにふさわしい者とするためにあるので す。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第29巻「神の福音(二)」(1997年版)メッセージ第20編か ら引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。