神の愛の取り扱いはわたしたちを彼の聖にあずかる者とならせる(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヘブル12:5 ……『わが子よ、主の取り扱いを軽んじてはならない。彼にとがめ られる時、気落ちしてはならない。(6節)なぜなら、主は愛する者を取り扱い、 受け入れるすべての子をむち打たれるからである』。(10節)肉の父は、自分の良 いと思うようにしばらくの間、取り扱いましたが、霊の父は、益のために、わた したちが彼の聖にあずかるようにと取り扱われるのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) ヘブル人への手紙第12章5節から6節においてわたしたちは、取り扱いの動機が神 の愛であることをはっきりと見ることができます。神の取り扱いを受ける人たち は神の子たちです。もしある人が神の子でないなら、神はその人を取り扱わない でしょう。神が未信者を取り扱うことを、聖書の中に見いだすことは決してでき ません。ですから、取り扱いの及ぶ範囲はクリスチャンに限定されます。そして 取り扱いの動機は愛です。神が人を取り扱うのは、人を憎んでいるからではなく、 人を愛しているからです。 神がわたしたちを取り扱うのは、わたしたちが神の聖にあずかることができるた めです。仮に、あるクリスチャンがこの世で、神の性質と聖さを現すことなく、 非常に気ままに生活しているとすれば、そのような人の上に神の御手は重く臨む でしょう。神はわたしたちを懲らしめることを好まれません。神の目的は、ご自 身の聖さがわたしたちにおいて現されることです。そして神のこの聖さがわたし たちにおいて現されさえすれば、神はわたしたちに対する取り扱いをやめられる でしょう。ですから、取り扱いを受けることは、わたしたちが主のものでないこ とを証明するのではないことがわかります。むしろ主の取り扱いは、わたしたち が主のものであることを証明するのです。主のものである人だけが、取り扱いを 受けるにふさわしいのです。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー著「神の福音、第三巻」(1999年版)の第20編から引用されて います。いずれも日本福音書房から出版されています。