心の純粋な人たちは神を見る ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ5:8 心の純粋な人たちは幸いである。彼らは神を見るからである。 2テモテ2:22 ただし、あなたは若い時の欲から逃れなさい。そして純粋な心で 主を呼び求める人たちと共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 義であるとは自分を取り扱うことであり、あわれみ深いとは人を取り扱うことで あり、心が純粋であるとは神に対してです。自分に対しては厳格で、言い訳をす べきではありません。人に対してはあわれみ深くあり、彼らが受けるべき以上の ものを与えます。しかし神に対して、わたしたちの心は純粋でなければならず、 神以外に何も求めてはなりません。心が純粋であることの褒賞は、神を見ること です。神がわたしたちの褒賞です。神ご自身より大いなる褒賞はありません。自 分自身には厳格で義であり、人にはあわれみ深く、神に対しては純粋であること によって、わたしたちはこの褒賞を得ます。 心が純粋であるとは、目的が単一であること、神のみこころを達成して神に栄光 を帰すというただ一つの目標を持つことです。これは天の王国のためです。わた したちの霊は、キリストを受け入れる器官です(ヨハネ1:12.3:6)。わたしたち の心は、キリストが命の種として成長する土地です(マタイ13:19)。天の王国の ために、わたしたちは霊の中で貧しく、霊の中で空っぽである必要があります。 それは、わたしたちがキリストを受け入れることができるためです。また、わた したちの心は純粋で単一である必要があります。それは、キリストが何の妨げも なく、わたしたちの中で成長することができるためです。 わたしたちの心が、神を追い求める上で純粋であるなら、わたしたちは神を見ま す。神を見ることは、心が純粋である者に対する褒賞です。この祝福は、今日の ためでもあり、来たるべき時代のためでもあります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(一)」(1997 年版)メッセージ第15編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。