人にあわれみを示すことによって祝福される ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ5:7 あわれみ深い人たちは幸いである。彼らはあわれみを受けるからで ある。 エペソ2:4 しかし、あわれみに富んでおられる神は、わたしたちを愛してくだ さった彼の大きな愛のゆえに。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― わたしたちは義において自分に対して厳格でなければなりませんが、人に対して はあわれみ深くあることと、彼らに要求しないことを学ばなければなりません。 どのクリスチャンであっても、人に要求することは間違っています。自分に対し て真に厳格であるなら、人に対してどのようにあわれみ深くあるべきかを知るで しょう。しかし、まず自分に対して義でないのに、人に対してあわれみ深くあろ うとしてはなりません。だらしない人はみな、すでに自分自身にあわれみ深くあ ったので、人に対してあわれみ深いのです。毎朝遅くまで寝ている人は、遅くま で寝ている人にとてもあわれみ深いでしょう。この種のあわれみは、全くあわれ みではありません。それは絶対に間違っています。だらしない人は、人に対して いかにあわれみ深くあるべきかを知りません。ただ厳格な人、義である人だけが、 いかにあわれみ深くあるべきかを知っているのです。 わたしたちは自分に対して正しく、厳格でなければなりません。決して自己弁護 してはなりません。しかし、他の人がわたしたちに対して罪を得て、それによっ て彼らの欠点を暴露した時、わたしたちは彼らに対してあわれみ深くなければな りません。自己を義とする人たちはみな、他の人を罪定めし、決して容赦しませ ん。神はご自身において義です。しかしながら、もし神がわたしたちを取り扱う ことで極みまで義であるとしたら、わたしたちはみな殺されてしまうでしょう。 神はご自身に関して義ですが、わたしたちを取り扱うことではあわれみに満ちて います。堕落した罪人として、わたしたちは確かに神のあわれみを必要とします。 わたしたちも自分に対して義であり、人に対してあわれみ深くあることを、学ば なければなりません。自分に対して義であり、人に対してあわれみ深くあるとい うこの事柄は、第一に外側の振る舞いの事柄ではありません。それは第一にわた したちの内側の態度、内側の存在の事柄です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(一)」(1997 年版)メッセージ第15編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。 6月16日(木)の分のeMannaの配信が遅れましたことをお詫び申し上げます。