訪れてくる神と交わりを持つ(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 創世記18:1 主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑い ころ、天幕の入り口にすわっていた。(2節)彼が目を上げて見ると、三人の人が 彼に向かって立っていた……。(4節)少しばかりの水を持って来させますから、 あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。(5節)私は少し食べ物を 持ってまいります。それで元気を取り戻してください……。  ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 神が彼の御座に座していて、わたしたちがひれ伏して彼を礼拝するのと、神が木 陰に座って足を洗うのとでは、あなたはどちらが喜ばしいと思うでしょうか?  神はアブラハムの水準において、人のかたちで、彼の所に来られました。神がこ のように来られたので、神とアブラハムは友人となることができたのです。この 章には何の宗教的な礼拝や恐れもなく、ただ甘い親密さがあるだけです。何とす ばらしいことでしょう! わたしたちはみなこのように神を経験する必要があります。宗教によれば、神は 大聖堂や礼拝堂で人々を訪れます。しかし、神はしばしばごく普通の方法でわた したちを訪れます。多くの姉妹たちが台所で料理をしたり洗濯をしている時、主 はとても親密な、人の方法で彼女たちに来られ、彼女たちは主との甘い交わりの 楽しい時を持ち、友人のように彼と語り合います。多くの兄弟たちも同じような 経験をします。彼らが職場で働いている時、あるいは家でくつろいでいる時、主 は彼らに親しい友として来られ、彼らは主と親密な会話をします。これは、主が 人の水準でわたしたちを訪ねて来られ、わたしたちが主と親しい友のように交わ ることができるという経験です。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「旧約ライフスタディ・創世記(三)」(1998年版)メッセー ジ第50編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。