からだの中での交わりの生活(3) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1コリント12:13 なぜなら、わたしたちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自 由人も、みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を 飲むようにされたからです。(22節)それどころか、ほかより弱いと見える体の肢 体こそ、むしろ必要なのです。(23節)そしてわたしたちは、ほかより尊くないと 思う体の肢体に、さらに豊かな尊さを着せます。こうして、わたしたちの美しく ない肢体は、さらに豊かな美しさを持つようになります。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第3編) もしわたしたちが真にからだの命を見るなら、神の家の中にある制約も見て、勝 手な行動ができなくなってしまいます。同時に、もしわたしたちがからだの命を 持っているなら、自然に神の子供たちとの交わりを持ち、その交わりを尊び、そ の交わりが重荷であると感じなくなります。神の子供たちが、神の家が何である かを知らないなら、神の子供たちとの交わりをすることはできません。兄弟を重 んじない人、人を尊敬しない人、他の人に立場を与えない人、これらの人はみな 神の家を見ていないのです。 もしわたしたちが真のからだの命が何であるかを知るなら、必ず他の兄弟たちを 尊び、集会の中で命に触れ、また助けを得ることができます。わたしたちは集会 に来る時、助けを受け、命に触れることがたびたびあります。あなたが集会から 帰る時、ある兄弟が今日の集会は駄目だと言ったとします。しかし、注意してく ださい。一番駄目なのは集会ではなく、その人自身なのです。なぜなら、彼は神 の家の立場の上に立っていないので、他の人と交わることもできなければ、命の 供給を受けることもできないからです。もし彼の肉が対処を受けてキリストのか らだを見ていたなら、自然に人と交わりを持ち、最も弱い兄弟姉妹からさえも助 けを得ることができるということがわかるでしょう。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第35巻「アブラハム、イサク、ヤコブの神」(1998年版) 第3章から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。