そして人は主を呼び求め始めた(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 創世記4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼はその名をエノスと名づけた。 この時、人々は主の名を呼び始めた。(口語訳) ローマ10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者はすべて救われる」からです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第2編) わたしたちは、自分の生活がむなしく、自分自身がもろいことを見る時、自然に 主の御名を呼び始めるでしょう。こういうわけで、創世記第4章26節は「この時、 人々は主の御名を呼び始めた」と言っているのです。人類の第三世代であるエノ スの時から、人々は主の御名を呼び始め、自分たちの弱さ、もろさ、死ぬべきこ とを認識しました。 わたしたちは神について関心がない時、彼の御名を呼びません。しかしながら、 彼のために生き、彼の道によって彼を礼拝しなければならないことを認識する時、 また自分はもろく、死ぬべきであり、自分の生活がむなしさ以外の何ものでもな いことを認識する時、自然に内側の深い所から、祈るだけでなく、主の御名を呼 びます。 あるクリスチャンは、主を呼び求めることは主に祈ることと同じであると考えて います。以前、わたしも同じ観念を抱いていました。しかしながら、ある日、主 はわたしに、彼の御名を呼び求めることはただ祈ることとは違うことを示してく ださいました。そうです、呼ぶことは一種の祈りです。なぜなら、それはわたし たちの祈りの一部分であるからです。しかし、呼ぶことは単に祈ることではあり ません。呼ぶというヘブル語は、「……へと叫ぶ」、「……へと呼ぶ」、すなわ ち、叫ぶことを意味します。ギリシャ語の「呼ぶ」は、「人に求める」、「名前 で人を呼ぶ」ことを意味します。言い換えれば、それは聞こえるように名前を言 って人を呼ぶことです。祈りは黙ってでもよいのですが、呼ぶことは聞こえるも のでなければなりません。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「旧約ライフスタディ・創世記(二)」(1998年版)メッセー ジ第25編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。