神の慈しみに感動した結果 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ローマ12:1 兄弟たちよ、こういうわけで、わたしは神の慈しみを通して、あな たがたに勧めます。あなたがたの体を、神に喜ばれる、聖なる、生きた供え物と してささげなさい。それが、あなたがたの理にかなった奉仕です。 6:13 ……むしろ、あなたがた自身を死人の中から生きている者として、神にさ さげ、そしてあなたがたの肢体を義の武器として、神にささげなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第12章1節でパウロは、勧める方法で語り、彼がわたしたちに命じようとする事 柄の重大さを啓示します。それは神の願いと目的を開いて見せます。歴代、神は 特別な願いを持ってこられました。それは、キリストのためにからだを持つこと です。ですから、使徒は、「兄弟たちよ、こういうわけで、わたしは神の慈しみ を通して、あなたがたに勧めます」と言いました。「慈しみ」は単数形ではなく、 複数形であることに注意してください。神は一種類の慈しみだけでなく、多くの 種類の慈しみをわたしたちに対して持っておられます。彼はわたしたちを選ぶこ とで、慈しまれました。彼はわたしたちを召すことで、救うことで、彼の命の中 にもたらすことで、慈しまれました。使徒パウロが、体を神にささげるようにと わたしたちに勧めたのは、神のこれらの慈しみを通してでした。わたしたちが神 の慈しみを認識し、それらに感動するなら、使徒がわたしたちに勧めることを、 わたしたちは行なうでしょう。 なぜパウロは「生きた」という言葉を使うのでしょうか? それは、彼がこの供 え物を旧約の供え物と比較しているからです。旧約時代にささげられた供え物は、 すべてほふられましたが、召会はほふられた供え物ではありません。それは命と してのキリストに満ちた生きた供え物です。第8章でわたしたちは、信者たちが 命を与える霊としてのキリストで満たされることを見ます。彼らが第12章に来て、 自分自身を神への供え物としてささげる時、彼らは命の霊で満たされた生きた供 え物となります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ローマ人への手紙(一)」(1997年 版)メッセージ第25編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。