宗教の実行か、それともキリストの臨在か ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この宮を壊しなさい。そうすれ ば、わたしは三日のうちにそれを興す」。(20節)そこでユダヤ人は言った、「こ の宮を建てるのに、四十六年もかかっています。それなのに、あなたはそれを三 日のうちに興すのですか?」。(21節)しかし、イエスはご自分の体の宮のことを 言われたのであった。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 宗教と神のエコノミー(ご計画)が相対することは、主の人間生活によって例証さ れることができます。主イエスが地上におられた時、宮とそのあらゆる儀式、慣 例、規定は、まだエルサレムにありました。祭司たちは、宮でささげ物をささげ、 香をたき、ともし火をともしていました。しかしながら、神はその宮にはおられ ませんでした。神は主イエスの中におられました。ある時、主はベタニヤで、ラ ザロ、マルタ、マリヤの家にとどまられました。彼は、正常な、人間的な方法で 彼らを訪れ、彼らと語られました。それにもかかわらず、彼がベタニヤであの家 におられたのに、祭司たちは宮で儀式を行ない続けました。宮の祭司たちに、わ たしたちは宗教の慣例を見ますが、ベタニヤの主には、神のエコノミーを見ます。 神のエコノミーは、ご自身を人の中に造り込むことです。 彼のエコノミーが遂行されたのは、宮ではなく、ベタニヤのあの家においてでし た。なぜならそこには、神の豊満の具体化であるキリストがおられたからです。 宮で礼拝した人たちは、彼らの宗教を実行していましたが、ラザロ、マルタ、マ リヤは主の臨在を享受しました。地方教会は今日、エルサレムの宮のようではな く、ベタニヤのあの家のようでなければなりません。これは、教会は宗教の場所 ではなく、神のエコノミーが遂行されている場所であるべきことを意味します。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・エペソ人への手紙(三)」(2001年 版)メッセージ第57編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。