キリストは教会を清める ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― エペソ5:26 それはキリストが教会を聖化し、言葉の中の水の洗いによって教会 を清めるためであり、(27節)またそれは、しみやしわや、そのようなものが何も なく、聖くて傷のない栄光の教会を、彼がご自身にささげるためです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― ここの水の洗いは、キリストの贖う血の洗いとは異なります。贖いの血は、わた したちの罪を洗い去りますが(1ヨハネ1:7)、命の水は、わたしたちの古い人の 天然の命の傷、すなわち、「しみやしわや、そのようなもの」を洗い去ります。 主は教会を分離し聖化する時、まず彼の血でわたしたちの罪を洗い去り、次に彼 の命でわたしたちの天然の傷を洗い去ります。わたしたちは今、そのような洗い の過程にいますが、それは教会が聖くて傷のないものとなるためです。 創世記第2章のエバは、清めの必要はありませんでした。なぜなら、その章で彼 女はまだ堕落していなかったからです。彼女は純粋であり、複雑さはありません でした。しかし、わたしたちは堕落し、汚染され、汚されているので、今日、清 められる必要があります。もし養いとはぐくみ(エペソ5:29)があるだけで清めが なければ、わたしたちの問題は残ったままです。主の養いとはぐくみは常に、彼 の清めをもたらします。清めによってもたらされた霊的新陳代謝の過程で、わた したちの中の「細菌」は殺され、消極的なものは除き去られます。清めを伴う養 いとはぐくみを通して、わたしたちは健康で強くなります。もし養いが停止する なら、清めも停止するでしょう。しかし、わたしたちが継続的に霊的供給を取り 入れるなら、内側に吸収するキリストの要素は、わたしたちを内側で清めて、古 くて死んだ清くないものを運び去ります。この新陳代謝の過程は、日ごとに教会 生活の中で起こっています。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・エペソ人への手紙(三)」(2001年 版)メッセージ第54編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。