信じて受け入れることは神のみわざを行なうことである(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ6:28 彼らは彼に言った、「わたしたちは神のわざを行なうために、何を すべきでしょうか?」。(29節)イエスは答えて言われた、「神が遣わされた者の 中へと信じること、これが神のわざである」。 ヨハネ1:12 しかし、すべて彼を受け入れた者、すなわち、御名の中へと信じる 者に、彼は神の子供たちとなる権威を与えられた。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― ヨハネによる福音書第6章28節で、ある人たちが主イエスに尋ねて言いました、 「わたしたちは神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか?」。彼らは神 に対して熱心で、神のわざを行なおうとしましたが、一つの問題がありました。 それは、彼らが神のわざを行なうとは何を行なうことなのかを知らなかったこと です。彼らは、何を行なうかを知りさえすれば、行なうことができる、「何をす べきでしょうか?」というこの問題を解決しさえすれば、神のわざを行なうこと ができる、と思っていました。行なうことができるかどうかは問題でなく、何を 行なえばよいのかが解決すればそれで良い、と言っているかのようです。ここで 人は、神のわざを行なおうと思い、神のわざを行なうことができると感じ、自分 には神のわざを行なうに足る能力があると思っています。 しかし、主の答えは人の質問とは完全に異なっていました。主は言われました、 「神が遣わされた者の中へと信じること、これが神のわざである」(29節)。人は そこで自分ができることを誇りましたが、主の答えは、人はただ信じさえすれば よい、ということでした。人が何かを行なおうとすることは、人が自分の能力を 証明したいということを表しています。人が信じるということは、人には行なう 能力がないのを承認することを示すものです。信じるとは受け入れることです( ヨハネ1:12)。神が遣わされた者の中へと信じるとは、主イエスの中へと信じる ことです。人の功績や人の能力という問題はありません。人は何も行なうことが できません。すべて神がそれを成し遂げられました。人はただ手を伸ばして神の 御子を受け入れさえすればよいのです。信仰とは、神がみわざを行ない、神の愛 するひとり子を人に与えられたので、人は何もする必要がなく、ただ神がなされ たことを受け入れさえすればよいという意味です。  ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第38巻「一般的なメッセージ(二)」(1998年版)メッセー ジ第39編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。