からだの中の一肢体となる(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ローマ12:3 わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に 言います。自分自身について思うべきことを超えて、思い上がることなく、むし ろ神がそれぞれに割り当てられた信仰の度量にしたがって、冷静な思いで思うべ きです。(4節)一つの体の中には多くの肢体があり、そしてすべての肢体が同 じ機能を持っていないように、(5節)わたしたちも数は多いのですが、キリス トの中で一つからだであり、そして各自は互いに肢体なのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 主はわたしたちめいめいに一つの分を割り当てられました。わたしたちは自分自 身を過大評価するべきではありません。わたしたちは、主がわたしたちに割り当 ててくださった分に忠信であり、主が他の人たちに割り当てた分を尊ぶべきです。 多くの若い人たちはいつも自分を他の人たちと比べます。彼らは自分はあれこれ と持っているが、他の人たちは持っていないと言います。あるいは、彼らはあれ これと持っているが、自分は持っていないと言います。実は、このように比較す ることはできないのです。もしあなたが手と目はどちらが良いか尋ねるなら、わ たしは両方とも良いと言うほかありません。からだを見ている人は、すべての肢 体に機能があることを見ています。彼らは、自分が多くの肢体の一つにすぎない ことを見ています。彼らは自分自身を特別な立場に置いたり、他の人たちと比較 したり、他の人たちの地位を奪ったりしません。 いったんクリスチャンがからだを見るなら、もはや高ぶったり、ねたんだりでき ません。からだは一つです。ですから、働きは他の人たちが行なっても自分が行 なっても同じです。全く違いはあり得ません。働きがあなたによってなされても、 他の人たちによってなされても、最終的に栄光は主に帰されるのであり、祝福は 教会にもたらされるのです。もしあなたがキリストのからだを見るなら、自然に 内側でこのような感覚を持つでしょう。あなたは、からだが一であり、働きも一 であることを感じるでしょう。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第36編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。