からだの感覚 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1コリント12:12 それは、体が一つであっても多くの肢体があり、体のすべて の肢体が多くあっても一つの体であるように、キリストも同様だからです。 (26節)もし一つの肢体が苦しむなら、すべての肢体が共に苦しみます。もし一つ の肢体が栄光を受けるなら、すべての肢体が共に喜びます。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 同じ事がキリストのからだについても言えます。わたしたちは、キリストのから だを一つの原則や教理として見るだけでなく、キリストのからだが一つの感覚で あることをも見る必要があります。 苦しむとか喜ぶというのは一種の感覚です。肢体は多くあるのですが、持ってい る命は一つなので、持っている感覚も一つです。ある人は義足を取り付けていま す。外側から見ると本物の足と同じようですが、義足には命がないので、少しも 体の感覚がありません。他の肢体が苦しみを覚えても、義足は何も感じません。 別の肢体が喜びを感じても、この義足は何も感じません。しかし、他の肢体には みな感覚があります。なぜなら、それぞれの肢体にはみな同じ命があるからです。 ただこの義足にだけ感覚がありません。なぜなら、命がないからです。ですから、 命は取り繕うことができないのです。また命は取り繕う必要もないのです。ある のであれば、あるのです。あなたは取り繕う必要がありません。ないのであれば ないのです。あなたは取り繕っても、本物のようには見えません。命の最も顕著 な現れは、感覚です。一人のクリスチャンがからだの命を見たのであれば、必ず からだの感覚を持ち、必ず別の肢体と同じ感覚を持つのです。 キリストのからだの教理を聞くこととキリストのからだを見ることは、二つの全 く別のことです。キリストのからだの教理を聞くことは、単に外面上の原則を知 ることにすぎません。しかし、キリストのからだを見たなら、内側に必ず異なる 感覚が生じます。救いの教理を聞いたということは、神がどのように罪人を救う のかを知ったのにすぎません。しかし、主イエスを救い主として受け入れると、 内側で罪に対して感覚を持つようになり、神の感覚が生じます。兄弟姉妹よ、こ の違いを見たでしょうか? ですから、わたしたちは命の感覚をなおざりにすべ きではありません。(わたしたちは、外側で感じる感覚について言っているので はなく、内側で感じる感覚について言っています)。この感覚は命の表現です。 感覚があるかどうかは、内側のものが真実であるか虚偽であるかを明らかにする テストです。そして内側に神の命があるかどうかをわたしたちに見せるのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第35編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。