命の教え ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1ヨハネ2:27 あなたがたの中には彼から受けた油塗りが住んでいるので、あな たがたは、だれにも教えてもらう必要はありません。彼の油塗りが、すべてのこ とをあなたがたに教えます。この油塗りは真実であって、偽りではないのですか ら、油塗りがあなたがたに教えたように、彼の中に住んでいなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 霊的な事柄の上で、教理を知っているだけで感覚がないのは、役に立ちません。 例えばある人は、うそをつくのは一つの罪であり、クリスチャンのすべきことで はない、と他の人が自分に言うのを聞いて、わたしはうそをつくべきでない、と 言うとします。しかし、問題はうそをつくべきかどうかを口先で言うことではな く、彼がうそをついている時、彼の内側に感覚があるかどうかです。もし彼がう そをついても内側に少しも罪であると感じないのであれば、どんなに彼が口先で、 うそをつくのは罪であると言い続けても、何の役にも立ちません。彼は一方でう そをつくべきでないと言うかもしれませんが、もう一方では常にうそをついてい るでしょう。神の命を持っている人の特徴は、彼が外側でうそをつく時、彼の内 側は間違っていると感じることです。彼が教理の上でうそをつくのは間違いであ ると知っている、というのではありません。彼がうそをつこうとする時、内側で 不快感を覚えるのです。これをクリスチャンと言います。内側に命がある、内側 に感覚がある、これがクリスチャンです。命の感覚がクリスチャンの特徴です。 命がなければ、内側の感覚もなく、それはクリスチャンではありません。外側の 規則は、標準にすぎず、命ではないのです。 命の感覚に一つの特徴があります。それは他の人に言われなくても、あなたの内 側で自然に知ることができるということです。他の人に言われてはじめて知るの でしたら、それはあまりにも遅すぎます。もしすべてのクリスチャンが他の人に 言われてはじめて、罪であるかどうか、またそれをやってもよいのかどうかを知 るのでしたら、それは大変なことです。もしあなたのそばで、「それは罪です」 と言う人がいなければどうなるのでしょうか? もしあなたに言ったとしても、 あなたがそれを忘れたらどうなるのでしょうか? 外側から他の人がこのように しなさいと言って、それをするのではありません。内側に一つのものがあって、 それがあなたに告げるのです。内側に一つの命があり、光があり、感覚があるの が、クリスチャンです。内側の感覚こそ、わたしたちが注意を払うべきものです。 この内側の感覚は、神の光の照らしから来ます。これは命から来るのであって、 人に聞くことから来るのではありません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第35編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。