神聖な命の感覚(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ローマ8:6 肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。 (15節)あなたがたは、再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる 身分の霊を受けたのであり、この霊の中で、わたしたちは「アバ、父よ!」と叫 ぶのです。(16節)その霊ご自身、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子供 たちであることを、証ししてくださいます。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― ある人が自分は罪人であると認め、主イエスを救い主として受け入れたのに、罪 に対して感覚がないのでしたら、この人は再生されているのでしょうか? 彼が 罪を犯した時、あなたが彼の家まで行って、このように行なうことは間違いであ ると告げることによってはじめて、このことは間違っていたと認めるのでしたら、 どうでしょうか? しばらくして、彼はまた過ちを犯します。ところが、自分の 過ちについて彼に尋ねると、どうしてそれをしてはいけないのかと彼が質問する とします。彼自身に感覚がなく、他の人が彼に代わって感覚を得る必要があるの でしたら、このような人に神の命があると言えるでしょうか? もし神の命があ るなら、感覚もあるはずです。神の命があって、神の命の感覚がないということ は、あり得ません。 人が神の命を持つと、罪に対して感覚を持つだけでなく、神ご自身についての認 識も持ちます。わたしたちが受けたのは奴隷の霊ではなく、子たる身分の霊です から、ごく自然に神と親しむことができます。そして「アバ、父よ」と呼ぶ時、 とても甘く感じるのです。神を父として知ることは、この命の感覚から来るので す。ある人はただ教理的に神を知っているだけで、神に触れたことがありません。 彼は神を恐れていますが、神に触れたことがないのです。彼は神とかかわりを持 ったことがないので、聖霊も彼の霊と共に彼が神の子供であることを証しすると いうことはないのです。ですから、彼は霊の中から「アバ、父よ」と叫ぶことが できません。このような人は祈るかもしれませんが、彼は祈りの中で罪が離れ去 ったと感じることがないのです。そして罪の恐ろしさを感じません。また神と親 密であるとも感じません。このような人たちは神とかかわりを持ったことがなく、 神から新しい命を得てもいないのです。彼らは神に親しみを覚えることもなけれ ば、キリストがすでに神との間の隔てを除き去ったと感じることもなく、神の子 供であるとの感覚もないのです。彼らはクリスチャンであると言いますが、神の 御前での彼の感覚は正しくありません。彼は口では「天の父よ」と言うことがで きますが、内側にその感覚がないのです。内側の感覚があるというのは、命があ るという証明です。もしまだこの感覚がないのであれば、どのようにしてこの命 があると言えるでしょうか? ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第35編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。