クリスチャンとはキリストの言葉にある命を受け入れる人である(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ6:31 「わたしたちの父祖は荒野でマナを食べました。『神は彼らに天か らパンを与えて食べさせられた』と書かれているとおりです」。(32節)イエスは彼 らに言われた、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う。モーセが天 からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が、天からのまことの パンを与えてくださるのである。(33節)神のパンとは、天から下って来て、世に 命を与える者である」。(34節)彼らは彼に言った、「主よ、このパンをいつもわた したちに与えてください」。(35節)イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパン である。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしの中へと信じる者は いつまでも決して渇くことはない」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第2編) 物質のパンを食べたゆえに主を追い求めていたこれらの人たちは、依然として周 辺を巡っているだけでした。彼らは問いかけました、「これはヨセフの息子、イエ スではないか? 彼の父母をわれわれは知っている」(42節)。彼らはただ外面的に 主イエスを知っただけでした。主は再び彼らに言われました、「わたしは天から 下って来た生けるパンである。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きる。 わたしが与えるパンはわたしの肉であり、世の命のために与えるものである」(51節)。 この言葉のゆえに、ユダヤ人たちは互いに言い争いを始めました。彼らはただ外 見を見、外側から主イエスを知り、外側から主イエスの言葉を理解しようとしま した。しかし、このようにして彼を知り理解することは不可能でした。 聖書が続けて記している言葉に、わたしたちはもっと注意を払わなければなりま せん。主の言葉のゆえに、ユダヤ人たちだけが当惑してしまったのではなく、彼 の弟子たちでさえも、その多くの人が理解しなかったのです。そこで彼らは言い ました、「これはひどい言だ。だれがこれを聞いておられよう?」(60節)。彼の 弟子たちは去って行き、後退してしまいました。そしてもはや彼と行動を共にし ませんでした。彼らはつまずきました。彼らはもはや彼の弟子ではありませんで した。外側の五つのパンと二匹の魚は多くの人たちを引き付けて、主イエスを尋 ね求めさせましたが、内側の命のパンが提示されると、弟子と呼ばれていた多く の者たちでさえ、それを受け入れることができませんでした。人は何とたやすく 外側のものに注意を払うことでしょう。また人は何とたやすく内側のものを捨て 去ることでしょう。兄弟姉妹よ、わたしたちはここで警告を受けるべきです!  弟子と呼ばれる者はとても多いのですが、中途で退く者も少なくないのです。外 側でクリスチャンになるのであれば、中途で退いてしまうでしょう。命に触れる ことができない人は、中途で退くのです。内側で主の命を受けない人は、決して 主の弟子となることができません。だれかが彼を落胆させてクリスチャンにさせ ないのではありません。彼自身やっていけなくなるのです。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第34編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。