クリスチャンとはキリストの言葉にある命を受け入れる人である(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ3:1 ところが、パリサイ人の一人で、名をニコデモというユダヤ人の指 導者がいた。(2節)この人が、夜イエスの所に来て言った、「ラビ、わたしたちは、 あなたが神から来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでな ければ、あなたが行なっておられるこれらのしるしを、だれも行なうことはでき ないからです」。(3節)イエスは彼に答えて言われた、「まことに、まことに、わ たしはあなたに言う。人は新しく生まれなければ、神の王国を見ることはできな い」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第1編) ヨハネによる福音書第3章で主イエスはニコデモに、新しく生まれることを話さ れました。ニコデモは言いました、「わたしたちは、あなたが神から来られた教師 であることを知っています」。しかし主イエスは、「人は新しく生まれなければ、 神の王国を見ることはできない」と答えられました。教師が重んじるのは、教え ることや学ぶことであり、外側のことです。新しく生まれることの重点は、霊で あり、命であり、内側のことです。多くのいわゆるクリスチャンたちは、「教師」 というこの門から入って来ました。彼らはキリスト教の教理を学び、バプテスマ を受け、聖書の予表や預言さえも解釈することができます。そしてクリスチャン の外側の行ないとか、祈りとか、礼拝に参加することとか、献金などをよく学び 取れば、それで自分はクリスチャンであると考えています。このような人はキリ スト教を見間違えています。聖書は、クリスチャンになるには、必ず新しく生ま れることから始めなければならないことをわたしたちに見せています。もし一人 の人に新しく生まれた経験がなく、内側に主の命がなければ、その人は根本的に クリスチャンではありません。重ねて言いますが、キリスト教は外面の宗教では なく、内側の啓示によるものです。クリスチャンは外側でなるのではなく、内側 でなるのです。 ヨハネによる福音書第6章の中で、主イエスは五つのパンと二匹の魚を五千人に 分け与えて、彼らを満腹させられました。この人たちは次の日も主イエスを尋ね て来たので、主イエスはあからさまに彼らに言われました、「あなたがたがわたし を捜し求めるのは……パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためにで はなく、永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい。これこそ、人の子が あなたがたに与えるものである」(26-27節)。また言われました、「わたしが命の パンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしの中へと信じる 者はいつまでも決して渇くことはない」(35節)。主イエスを尋ねてきたこれらの 人たちは、パンを食べて満腹したからです。彼らは自分たちの真の必要が何であ るのか知らず、また主イエスがこの世に来られて人に与えようとするものが何で あるのかも知りませんでした。彼らはただ外面の物質的なパンを見ただけであり、 内側の命の尊さを見ていませんでした。主イエスはあわれみに満ちた主です。彼 は、これらの事において無知な人たちに対してご自身を隠さず、ご自身を彼らに 開き、彼が命のパンであり、彼の中へと信じる者たちに命を与えることを告げられ ました。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第34編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。