神のためであることを願う ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ローマ12:1 兄弟たちよ、こういうわけで、わたしは神の慈しみを通して、あな たがたに勧めます。あなたがたの体を、神に喜ばれる、聖なる、生きた供え物と してささげなさい。それが、あなたがたの理にかなった奉仕です。 14:8 わたしたちは生きるにしても、主に生きるのであり、死ぬにしても、主に 死ぬのです。こういうわけで、わたしたちは生きるにしても死ぬにしても、主の ものです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― イザヤ書第6章8節で神は言われました、「だれを遣わそう? だれが、われわれ のために行くだろう?」。神は、福音を広めて人を救うことを願われます。しか し、神が用いることのできる人はだれもいません。ある人は虚栄によって占有さ れています。ある人は、享楽、家族、安楽で占有されています。これらの者たち は、自分自身の事柄だけを顧みており、福音や神の働きの拡大に対する心を持っ ていません。兄弟姉妹よ、多くの人が救われないのは、神が救おうとされないか らではなく、あなたが神と協力しないからであることを、あなたは知っているで しょうか? 神が救おうとされないからではありません。あなたが神と協力しよ うとしないからです。もしすべての兄弟姉妹が進んで神と協力するなら、救われ る人の数は、わたしたちの計算できるものではなくなるでしょう。神の働きが前 進できないのは、神が人を得ておられないからです。兄弟姉妹よ、神はあなたを 得なければなりません。そうしてはじめて神ご自身の働きを達成することができ るのです。 聖書の中にとても尊い一つのことがあります。それは、神に対する人の心の願い を、神は尊ばれるということです。モーセの物語はわたしたちに示していますが、 モーセは神のためにイスラエル人を救うという心の願いを持ちました。モーセは 八十歳になるまで神に用いられませんでしたが、彼の心の願いは八十歳になって 起こったのではありませんでした。それは彼が四十歳の時にすでにあったのです。 神はその後の四十年の間、モーセの願いを忘れることはありませんでした。神は モーセのところへと戻ってこられました。 わたしたちはこのことをモーセの中に見るだけでなく、サムエルの中にも見ます。 ハンナは主に祈り、請願を立てました、「もし、あなたが……このはしために男 の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」(サム エル上1:10-11)。神はサムエルを得、その時代におけるご自身の目的をサムエル を通して達成されました。それは、サムエルの母が自分の子に関して、神に対し て一つの心の願いを持ったからです。神はご自身に対する人の願いを顧みられま す。神に対する人の心の願いを、神は尊ばれます。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第28編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。