わたしたちの心を神に開く ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 詩篇19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますよ うに。わが岩、わが贖い主、主よ。(新改訳) 使徒13:22 神はサウロを退けた時、ダビデを王として、彼らのために立てられ ました。彼はまた、その人について証しをして言われました、「わたしはエッサ イの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなう者で、わたしの意志をこと ごとく行なうであろう」。(23節)この人の子孫から、神は約束にしたがって、イ スラエルに救い主イエスをもたらしました。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― ここに挙げた節は、両方ともダビデと関係があります。詩篇第19篇14節はダビデ の祈りであり、使徒行伝第13章22節と23節はダビデについての記述です。ダビデ の祈りの中には「わたしの口の言葉」と「わたしの心の思い」という言葉があり ます。彼が祈ったのは、外側の言葉において守られることだけでなく、内側の思 いにおいても神に喜ばれることでした。口の言葉は、心の思いの表現です。心が 根本的な問題です。外側の言葉が正しいかどうかは根本的な問題ではありません。 外側で語る態度が正しいかどうかは根本的な問題ではありません。心の思いが根 本的な問題です。心の思いが根本的な問題であり、これを見落とすことはできま せん。ダビデは「わたしの口の言葉が御前に、受け入れられますように」とだけ 祈ったのではありません。彼はその祈りに加えて、「わたしの心の思いが御前に、 受け入れられますように」と言いました。ダビデの祈りは、心の思いが御前に受 け入れられることでした。こういうわけで、後になってパウロは、ダビデが主の 心にかなった者であると証しすることができたのです。神の心にかなう人には、 神が心に触れることができます。もしあなたが自分の心を神に触れていただこう としないなら、あなたが神の心にかなう人であることは難しいでしょう。 多くのクリスチャンは、「わたしがこの事をするのはなぜ良くないのですか?  なぜこのように言うのは間違いなのですか? このように自分を発表することは どうして悪いのですか?」と尋ねます。兄弟姉妹よ、正しい事を行なうかどうか、 正しい事を言うかどうか、正しく自分自身を発表するかどうかは、真の問題では ありません。そうではなく、あなたがそのような事を行なう時、そのような事を 言う時、そのように自分自身を表現する時、あなたの心は正しいでしょうか?  あなたの心の状態はどうでしょうか? あなたの根の部分の状態はいかがでしょ うか? たとえ外側のすべての面が正しくても、あなたの心が間違っていること もあり得ます。神はあなたの心の状態に触れておられ、心の状態を尋ねておられ ます。このゆえに神は、ご自身の子供たちが多くの風と波をもって打たれること を許されるのです。神はこれらの事柄を用いて、あなたの心に触れ、あなたの心 の状態をあらわにされるのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第27編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。