真理はわたしたちを自由にする(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ8:32 またあなたがたは真理を知る。そして真理はあなたがたを自由に する。 エペソ4:15 むしろ、愛の中で真理を固く保って、わたしたちはすべての事で 、彼すなわちかしらであるキリストの中へと成長し込むのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第1編) わたしたちはすでに真理を持っていないでしょうか? 持っています。しかし 、ここで直ちに一つの問題が生じます。わたしたちが主の御前でどうであるか ということと、わたしたちがこの世でどうであるかということに、なぜ大きな 違いがあるのでしょうか? 十字架の働きはすでに終えられましたが、わたし たちはまだ勝利を得ていません。主イエスはわたしたちをある種類の人に変え てくださいました。しかし、わたしたちはこの地上で依然として別の種類の人 に見えます。これが意味することは、わたしたちの状態が、わたしたちが神の 御前で堅く保っている真理と一致しないということです。これがわたしたちの 問題です。しばしばわたしたちは、真理が何であるかわかりません。わたした ちが神の下へ来るのは、神の真理によるというよりも、自分自身の感覚と経験 によるのです。わたしたちは認識しなければなりませんが、神の真理は、わた したちの感覚や経験とは反対なのです。わたしたちが解決しなければならない 問題は、この両者のうちのどちらが真であるかということです。主が神の御前 でわたしたちのために成就してくださったことが真なのでしょうか、それとも わたしたち自身の感覚や経験が真なのでしょうか? この両者のうちのどちら が真なのでしょうか? これが問題です。 多くの時わたしたちは、何が真であり、何が実際であるかを見ていないために 、縛られてしまいます。いったんわたしたちが真理を見れば、真理はわたした ちを自由にし、わたしたちを解放します。ここでわたしたちは幾つかの事を述 べて、真理がわたしたちを自由にするとは何を意味するのかを例証してみます 。わたしたちはまず救いから始めます。例えば、ある人が福音を聞き、主イエ スが十字架上で死んで彼の血を流して、自分の罪を赦してくださったことを認 識するとします。彼は、神の御子が自分の罪を赦してくださったことを信じま す。そして、主を受け入れます。他の人が彼に、彼が主に属しているかどうか と聞くと、彼は「属しています」と言います。彼の内側は喜びで燃えています 。しかしながら、三か月、五か月が過ぎて、彼は少し体調が悪くなり、家族に 問題や困難が生じるとします。すると、彼の喜びは去ってしまいます。それは まるで喜びが彼から遠く離れ去ってしまったかのようです。彼は、もはや自分 は救われておらず、神の子供ではないかのように感じます。もし他の人が彼に 、彼がクリスチャンであるのかどうか、彼が救われているのかどうかと尋ねる なら、彼は次のように答えるかもしれません、「わたしはとても悩んでいます 。わたしは以前の喜びを失ってしまいました。わたしは、主イエスがいるのか どうかわかりません。わたしは、このことについてどう言ったらよいのかわか りません」。この時、あなたは彼に何と言うでしょうか? もしあなたが神の 真理を知っていれば、あなたは彼に言うでしょう、「あなたは、自分は救われ ていないと感じるかもしれません。しかし、事実の上では、あなたは救われて いるのです。実際の上では、あなたは救われているのです」。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉 は、ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メ ッセージ第24編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。