恵みと実際はイエス・キリストを通して来た ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと実際はイエス・キリス トを通して来たからである。 14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、実際であり、命である。わ たしを通してでなければ、だれも父に来ることはない。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 1900年前にピラトは、「真理とは何か?」と尋ねました(ヨハネ18:38)。多くの人 もこの質問をしました。わたしたちは、自分の観念にしたがって聖書の中の真理 の意味を解釈することはできません。わたしたちは、神の御言葉にしたがって真 理は何であるかを見なければなりません。「真理」という言葉は、ギリシャ語で は「絶対的な真実」という意味です。このゆえに、真理は理論ではなく、真実、 実際です。わたしたちは、多くの真の事柄の背後にある理論を知りませんが、そ れでもそれらの事実と実際に触れることができます。 ヨハネによる福音書第1章17節によれば、律法はモーセを通して与えられました が、恵みと実際はイエス・キリストを通して来ました。恵みとは、神の一つの態 度ではなく、神の一つの働きです。恵みとは、ナザレのイエス、すなわち神の御 子がわたしたちのために達成された働きです。神の御子は十字架につけられ、ご 自身の血を流し、神の贖いの働きを成し遂げられました。わたしたちが自分自身 で何かを行なう必要はありません。わたしたちは彼に信頼することによって救わ れます。十字架の働きがなければ、神にはご自身の恵みを人に分与することがで きません。神はモーセを通しては、人に律法を与えることしかできませんでした。 恵みは、ただ十字架の働きによってのみわたしたちへとやって来ます。ですから、 恵みとは神の働きです。恵みと実際の両方が同じ節の中で述べられています。恵 みはイエス・キリストを通してやって来ました。そして実際もイエス・キリスト を通してやって来ました。神はご自身の御子を世人に与えられた時、神の御子が 恵みとなり、また実際ともなることを、意図されました。神の御子の働きを通し て、恵みがあるようになりました。神の御子の働きを通して、実際もあるように なりました。エペソ人への手紙第4章21節は、「実際はイエスの中にある」と言 います。神は主イエスの中で真理を成就しました。真理は彼の中にあります。真 理とは彼の働きです。 主イエスは、「わたしは……実際であり」と言われました(ヨハネ14:6)。聖書の 中で述べられている真理とは、実際にほかなりません。実際とは何でしょうか?  それは、主イエスが成就された働きの結果として、わたしたちが神の御前で実 際に何であるか、ということです。これが真理です。これが実際です。主イエス はご自身の血を流して、ご自身に属するすべての人を贖われました。これは一つ の事実です。彼のゆえに、わたしは主の御前で贖われた人となっています。これ は真理です。真理とは、主イエスの中で成就された事実の結果として、わたしが 何であるかということです。わたしは、主イエスが成就された働きを通してのみ、 真理を持つことができます。もし主イエスが働きをなさらなかったのであれば、 わたしは主の御前で何の真理も実際も持たなかったでしょう。わたしは神の御前 で死んだ者であり、罪人でした。わたしは神の御前で何の立場もなく、何も持っ ていませんでした。しかし、今や、主に感謝します。主イエスの働きを通して、 わたしは神の御前で実際を持っています。わたしは堅固で実際であるものを得ま した。この実際で堅固なものは、今やわたしが贖われた者であるということの事 実です。わたしたちは覚えておかなければなりませんが、聖書の中で述べられて いる真理とは、講壇の上で語られる教理ではなく、主の御前にある一つの事実で す。教理とは、人が何かを解釈したものです。真理とは、主イエスの成就を通し て、わたしたちが神の御前で何になったかということです。主イエスの働きを通 して、神はわたしを別の人に変えてくださいました。これが真理です。これが実 際です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第24編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。