神の言葉になる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 2コリント4:8 わたしたちは四方から圧迫されますが、窮することはありませ ん。逃れる道がないようですが、逃れる道が全くないのではありません。(9節) 迫害されますが、見捨てられません。投げ倒されますが、滅ぼされません。(10 節)絶えずこの体に、イエスの致死力が働いています。それはまた、イエスの命 が、わたしたちの体に現されるためです。(12節)こうして、死はわたしたちの中 で働き、命はあなたがたの中で働くのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 問題は、わたしたちがだれであるかということです。わたしたちは、自分から遠 く離れた別の世界にある事柄を宣べ伝えるのでしょうか、それともわたしたちの 中にある事実を宣べ伝えるのでしょうか? わたしたちは、聖書の一部分から直 接語るのでしょうか、それとも、まず霊的実際に触れて、それからそれを聖書の 一部分をもって確認するのでしょうか? これら二つのことの間には大きな違い があることを、わたしたちは認識しなければなりません。神の言葉を伝えるのは、 どれだけわたしたちが自分の口で語ることができるかという問題ではなく、わた したちの命の中にどれだけ多くの構成があるかという問題です。わたしたちは、 単なる客観的な教理を宣べ伝えているだけなのでしょうか、それともすでにその 事の主観的な経験を持っているので、わたしたちはその事を語るのでしょうか?  多くの人は、客観的な教理を宣べ伝えることができるだけです。しかしながら、 客観的な教理は、他の人の中で何の効力も生じません。わたしたちが神の言葉を 語ることに加えて、もしわたしたち自身がその言葉そのものになっているなら、 他の人はわたしたちから助けを受けるでしょう。 神の言葉がわたしたちにやって来る時、それはテストされなければなりません。 陶器師が陶器に絵を描いたら、それは火を経なければなりません。そうしてはじ めてその絵は、手で消すことのできないものとなるのです。多くの人が持ってい る教理は、手で消すことのできるものです。しかし、もし神がわたしたちに恵み を賜り、わたしたちの内で働いてくださり、環境と啓示を通してわたしたちの中 で焼く働きを行なってくださるなら、その結果は堅固で永続するものとなるでし ょう。神は一回このようにされ、十回このようにされ、数十回このようにされ、 数百回このようにされるかもしれません。そしてある日、言葉は、火を経過した 言葉となり、わたしたちの中に造り込まれます。その時、わたしたちという人が その言葉となります。聖霊の管理と聖霊の啓示は、人の中に言葉を一回、十回、 百回と焼き付けていきます。最後には、その人が言葉となります。他の人たちは 彼を見る時、この人は言葉を語ることができる人であると言うのではなく、この 人は言葉そのものであると言います。この人は神の種となり、そして神はこのよ うな言葉を増殖することができるようになるのです。そうでないなら、言葉はた だ頭から頭へと伝えられるだけであり、教会はますます表面的になり、ますます 命がなくなり、ますます霊的実際がなくなってしまいます。ですから問題は、わ たしたちが神の種となることができるかどうかということです。もし神がわたし たちをまかれるなら、何が成長してくるのでしょうか? もしわたしたちの結ぶ 実が、人に教理をさらに明確に理解させるだけであって、主の命に触れさせるこ とがないのであれば、わたしたちの持つものはとても貧しくなるでしょう。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第21編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。