信者たちは神の種である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ13:38 畑は世界である。良い種は王国の子たちである……。 1テサロニケ2:8 このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、わたし たちはあなたがたに、神の福音だけでなく、自分の命までも、大いに喜んで分け 与えようとしたのです。それは、あなたがたがわたしたちにとって愛する者とな ったからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 仮に、ある人がわたしたちに、福音を宣べ伝えに来るよう招くとします。もしわ たしたちが熱心であり、福音のためであるなら、わたしたちは必ず行くことを願 うでしょう。しかし、わたしたちは認識しておかなければなりませんが、だれか に御言葉を語ってもらい、福音を宣べ伝えてもらうだけでは、不十分です。神は わたしたちを、すなわち人を、彼らの間に種としてまかなければなりません。わ たしたちはこれを見ているでしょうか? 神はわたしたちをまくのです。わたし たちは、まかれる種です。神は、人の内側にあるご自身の言葉を通して働かれま す。わたしたちが他の人に御言葉を宣べ伝える時、わたしたちは彼らの中に神の 言葉をまいているのであり、収穫を持つことを期待するのです。しかし、もしわ たしたちが種を神の言葉として見るだけで、人として見ないなら、わたしたちは 神のために働きをすることはできません。もしわたしたちが、自分の宣べ伝える 言葉だけに注意を払い、自分が根本的な信仰において正しく、聖書の解釈におい て純粋でありさえすれば、わたしたちは行って種をまくことができると考えるな ら、わたしたちは間違っています。多くの時、神の働きが損失を被るのは、わた したちの手の中にある種が単なる客観的な真理であるからです。これらの真理は、 まだわたしたちの存在の中に主観的な変化をもたらしておらず、まだわたしたち を王国の子としていません。 大きな問題は、わたしたちがどのような種類の人であるかということです。神の 種は、言葉であるだけでなく、人としてのわたしたちでもあります。良い種は、 王国の言葉であるだけではなく、それは人、すなわち王国の子たちです。わたし たちの間のどれだけ多くの人が神の種になることができるかと、わたしは問いた いと思います。とても哀れなことに、わたしたちの種のほとんどは客観的なもの です。わたしたちは主観的な種に欠けているのです! 兄弟姉妹よ、わたしたち が神の種になることができるかどうかは、大きな問題です。主は、一群れの伝道 者や一群れの人々を遣わして聖書を教えることを、意図しておられるのではあり ません。主の意図は、人が種になることです。主はご自身に属する人たちを、種 としてまきたいのです。もし主がわたしたちを種としてまかれるなら、このよう にまくことの結果はどうなるのでしょうか? 何であれ人はまくものを、刈り取 ります。わたしたちが助けを与える人たちは、しばしばわたしたちのようになり ます。別の言い方をすれば、わたしたちの刈り取りは、わたしたちが何をまいた かを証明します。それは、わたしたちがどのような種類の人であるかを証明しま す。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第21編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。