キリストは言葉であり、種である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ1:14 そして言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた。わ たしたちは彼の栄光を見た。それは、父からのひとり子としての栄光であって 、恵みと実際に満ちていた。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 聖書の中では、神の口から出て来る言葉は神の言葉と呼ばれますが、神によっ て遣わされた御子も神の言葉と呼ばれます。ヨハネによる福音書第1章1節は言 います、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。この 言は肉体と成って、わたしたちの間に住み、恵みと実際に満ちていました。わ たしたちは、これが主イエスを指していることを知っています。聖書の中で語 られている神の言葉は、ある時は、神が語られた言葉を指しており、ある時は 、神が生み出された言葉、すなわち神の御子を指しています。彼は御言葉であ り、生ける言葉であり、命の言葉です。あなたが彼から聞く時、あなたは御言 葉を聞くのです。あなたが彼を見る時、あなたは御言葉を見るのです。あなた が彼に触れる時、あなたは御言葉に触れるのです。これが、ヨハネによる福音 書第1章1節がわたしたちに告げていることです。 わたしたちの主イエスは、神の言葉です。彼はまた神の種でもあります。ヨハ ネによる福音書第12章24節は言います、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ 、それは一粒のままである。しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ」。 これは主イエスを指しています。彼は一粒の麦です。そしてこの一粒の麦から 、多くの麦粒が生み出されました。ペテロの第一の手紙第1章23節は言います、 「あなたがたが再生されたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、す なわち、神の生きている、存続する言によるのです」。主イエスは御言葉であ り、また種でもあります。 わたしたちは主を賛美しなければなりません。なぜなら、主は御言葉であるだ けでなく、種でもあるからです。わたしたちの神は、ご自身の御子を地上に遣 わして、種としてまかれました。主イエスが来られたのは、御言葉を宣べ伝え るためではなく、御言葉となるためでした。主は、御言葉を語る者であるだけ でなく、御言葉そのものでした。主は、種をまく者であるだけでなく、種その ものでした。神は幾つかの言葉をまかれただけでなく、ひとりの人をまかれた のです。主イエスは真に種であり、また真の種でした。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉 は、ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メ ッセージ第21編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。