他の人の信仰の行ないに倣うことをしない ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヘブル6:12 怠惰になることなく、信仰と辛抱強さによって約束を相続しようと している人たちに、倣う者となることです。 13:7 あなたがたを導き、あなたがたに神の言を語った人たちを覚えなさい。そ して彼らの生活の仕方の終わりを考えて、彼らの信仰に倣いなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 生きている信仰は決して過去の行ないを模倣したりしません。聖書は、他の人の 信仰に倣うようにとは告げていますが、他の人の信仰の行ないに倣うようにとは 告げていません(ヘブル6:12、13:7)。信仰に倣うことと信仰の行ないに倣うこ ととは、二つの全く異なる事柄です。わたしたちは使徒たちの信仰に倣うべきで す。しかし、わたしたちは彼らの信仰の行ないに倣うべきではありません。彼ら の影、ハンカチやエプロンは、病気をいやすことができました(使徒5:15、19:12) が、これはわたしたちにも同じ事ができるという意味ではありません。たとえ同 じ事を行なったとしても、病人はいやされないでしょう。なぜなら、わたしたち は使徒たちの信仰の行ないに倣っているだけであって、彼らの信仰に倣っている のではないからです。時には、ある人が病気になり、神は彼をいやされます。し かし、これは、わたしたちが同じように病気になれば、神のいやしを期待できる という意味ではありません。神は決してわたしたちが他の人の信仰の行ないに倣 うのを許されません。わたしたちが他の人の信仰に倣うのでなく、信仰の行ない に倣っていることに気づくまでには、長い行程があります。しばしば多くの困難 を経てはじめて、信仰の行ないに倣うことは行き止まりであることを見いだすの です。 わたしたちは方法がなくなり、道がなくなる時、わたしたちの祈りが実際で本物 となるのです。ここまで来てはじめて真に神を尋ね求めます。この時まで、わた したちの祈りは心を伴わない言葉だけの、習慣的な、意図のない祈りです。しか し、ここまで来ると、わたしたちの祈りは本物になります。わたしたちは真にむ なしくなって、次のように告白するでしょう、「わたしは役に立ちません。過去 に得た勝利でさえ助けになりません」。この時、わたしたちは真に主を尋ね求め、 自分が役に立たないことを知るでしょう。だれかがへりくだるように告げる必要 はありません。わたしたちはごく自然にへりくだるようになります。謙そんは、 他の人に教えられることでなく、内側から自然に出て来るものです。その時、わ たしたちが持っているものはみなむなしいことを認識し、「わたしを離れては、 あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)という言葉の意味を真に理 解するでしょう。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第22編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。