自己満足は霊的な堕落へと導く ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 啓示録3:17 なぜならあなたは、自分は富んでいる、富める者となった、何の乏 しいこともないと言っているが、実は自分が悩んでいて、みじめで、貧しく、盲 目で、裸であることを知らないからである。 ヨハネ7:37 祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って叫んで言われた、 「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい」。 エペソ3:19 ……また、あなたがたが満たされて、神の全豊満へと至るように。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 神の御言葉と多くの聖徒たちの経験によれば、聖霊が人の内側で行なわれる第一 の事柄(すなわち、聖霊がすべての人の内側に行なわれる同じ働き)は、人の中 に切望する心を起こすことです。すべての霊的成長が始まるのは、神が聖霊を通 して人の中に切望する心を起こして良い働きを始められる時です。聖霊の最初の 働きは、わたしたちに不満足な感覚を起こして、現状が間違っており、さらに良 くなるよう願いを起こさせることです。これが霊の成長の始まりです。別の言い 方をすれば、すべての失敗と後退は自己満足の結果です。失敗の始まりは自己満 足です。自己に満足しない感覚は、聖霊がわたしたちの中にご自身の働きを始め られたことを示すものであり、それはわたしたちの前進する時です。わたしたち が自分の貧しさと不足を知らない時はいつも停止状態にあります。後退は自己満 足から来ます。そして進歩は飢え渇きから来ます。これは一つの事実であり、わ たしたちのクリスチャン生活の全行程においてそうです。例外なく、まず聖霊は わたしたちの内側にさらに切なる願いを起こし、次に神は来られて、わたしたち を満足させ、わたしたちを満たします。まず神は空っぽにする働きを行なわなけ ればなりません。わたしたちが空っぽになる時、神はわたしたちを満たすのです。 ある兄弟姉妹たちは主の御前で真の願いを持っており、真に自分たちの不足と欠 点を感じています。兄弟姉妹よ、もしわたしたちがそのような感覚を持つなら、 このような生活が必ずわたしたちのものとなり得るのです。なぜなら、この願い は自分自身から起こるのでなく、わたしたちの内側の聖霊の働きから生じるから です。神ご自身は、何であれ空っぽにしたものを満たすことを、わたしたちは認 識すべきです。神は決してわたしたちを空っぽにしたまま去らせることはありま せん。神の目的はわたしたちを満たすことです。神はわたしたちを空っぽにされ たので、確かにわたしたちを満たします。空っぽにするのは手段にすぎません。 満たしが目的です。ですから、神はあなたを空っぽにすることなしに再び満たす ことはありません。もしあなたに切望する心があるなら、それはすでに聖霊の活 動する力の下にあることを証明します。聖霊は決して実のない働きをされること はありません。唯一の問題は、わたしたちの内に妨げがあるかどうかです。もし わたしたちの内側に真の願いがあるなら、わたしたちは確かに願っているものを 受け取ります。聖霊が働きを始められると、必ずそれを成し遂げられることを、 心に覚え、それに深く印象づけられてください。聖霊は働きを成し遂げるまで働 きをやめることはありません。ですから、わたしたちが空っぽになる時、彼はわ たしたちを満たすことを、しっかり心に留めておいてください。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第22編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。