主はわたしたちの実際生活を顧みられる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ21:3 シモン・ペテロは彼らに、「わたしは漁に行く」と言った。彼らは 彼に、「わたしたちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って舟に乗り込んだ。 しかし、その夜は何も捕れなかった。(4節)夜が明けたところ、イエスは岸辺に 立たれた。……(13節)イエスは来てパンを取り、それを彼らに与え、魚も同じよ うにされた。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 弟子たちは主の召しから彼らの古い職業へ後退していました。主は弟子たちに、 彼らがみな、上からの天的な力を着せられる日のために、エルサレムで待つよう にと告げました。しかし弟子たちは、その地位を離れ、その立場を放棄してしま いました。エルサレムを離れてガリラヤに来ることによって、彼らは自分たちの 地位を放棄しました。彼らは海に行って漁をすることを決定しました。ペテロと 他の弟子たちは、彼らの生活のゆえに漁に行きました。彼らは十分な食物の供給 に欠けており、そのことでとても心配であったのでしょう。 もう一方で、主は朝食を用意して、それを彼の弟子たちに配られました。「来て、 朝の食事をしなさい」という主の言葉は、彼が召した者たちの必要に対する、彼 の恵み深い顧みを示しています。主は何とすばらしいことでしょう! 主は弟子 たちに朝食を与えました。もしわたしがペテロであったなら、恥じて顔を隠した でしょう。わたしは主に何と言ったらよいか、わからなかったでしょう。ペテロ は、「主よ、ご機嫌いかがですか?」とか、「主よ、正しい地位を捨てて、ここ に漁をしに来てすみませんでした」と言うことができたでしょうか? わたしたちは、自分の生活のゆえに主の委託を放棄したりしないという学課を学 ばなければなりません。わたしたちは自分の生存を顧みるために、主の負担を放 棄してはなりません。わたしたちはこの世の人ではありません。わたしたちは神 の子供たちです。わたしたちはまず、神の王国と神の義を求めなければなりませ ん。そうすれば、主はわたしたちに実際的な供給を加えて与えてくださるでしょ う(マタイ6:33)。主はわたしたちの必要を顧みてくださいます。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ヨハネによる福音書(二)」(1996 年版)メッセージ第48編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。