その霊としての主はいつもわたしたちと共におられる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ20:26 八日の後、弟子たちは再び家におり、トマスも彼らと一緒にいた。 戸が閉ざされていたのに、イエスは来て真ん中に立ち、「平安があなたがたにあ るように」と言われた。(27節)そしてイエスはトマスに言われた、「あなたの指 をここにつけて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしの脇に 入れなさい……」。 マタイ28:20 ……見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共に いる。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 非常に不思議なことに、主は触れられることのできる肉体をもって、閉ざされた 戸を通って、入って来られました。これは、主が復活の後、その霊であったこと を意味します。復活した主は今やその霊ですから、彼はいつでも、どこでも、弟 子たちと共にいることができます。主の復活以来、主には時間や空間の問題はあ りません。主は今やどのような環境の下でも、わたしたちと共にいることができ ます。わたしたちは戸を閉ざすかもしれませんが、主はやはりわたしたちと共に おられます。 わたしはこの章を何度も読みましたが、主がどこかへ行かれたという何の表示も 見いだすことができません。これは、主が常にわたしたちと共におられることを 意味します。唯一の違いは、わたしたちが時には主の臨在を感じ、時には感じな いということです。わたしたちが彼の臨在を感じない時でさえ、彼はやはりここ におられます。今日のわたしたちにとっては、それは主が来られるか行かれるか の問題ではなく、主が現れるか現れないかの問題です。しかしながら、事実上、 主は絶えずここにおられます。わたしたちが主の臨在を感じようと感じまいと、 主はやはりここにおられます。今や主にとって、来られることも行かれることも ないのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ヨハネによる福音書(二)」(1996 年版)メッセージ第47編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。