命を供給する者となることを切に願う ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1テサロニケ5:11 こういうわけで、今も行なっているように、互いに慰め合い、 互いに建造し合いなさい。 エペソ5:18 ……むしろ霊の中で満たされ、(19節)詩と賛美と霊の歌とで語り 合い、心から主に向かって歌い、朗詠しなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 主は言われました、「それで、主であり先生であるわたしが、あなたがたの足を 洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」(ヨハネ13:14)。 わたしたちは、足を洗う働きが教会にゆだねられていることを覚えていなければ なりません。これは、人が主に来ることによって新鮮さを得ることはできないと いうことを意味するのではありません。そうではなく、主がわたしたちに互いの 足を洗うように命じられたということです。もしわたしたちが足を洗うことを願 うなら、まずわたしたち自身が新鮮でなければなりません。もし主がわたしたち の中で絶えず新しい働きをされるなら、わたしたちはいつも他の人たちに対する 新しい供給を持つでしょう。もし他の人がわたしたちに接触しても、新しく供給 するものが何もなく、わたしたちが五年前と同じであるのを彼らが見いだすなら、 それは哀れなことです。もし他の人たちがわたしたちの中に何か新しいものを見 いだすのに、数年あるいは数か月でさえも待たなければならないなら、それは哀 れなことです。わたしたちはとどまるのではなく、主の御前で積極的で活動的で ある必要があります。 兄弟姉妹よ、あなたがたは他の人たちに命を供給する者となることを切に願う必 要があります。他の人ほど雄弁でないとか、聖書知識を持っていないということ で、決して落胆してはなりません。あなたが命の中に生きている限り、あなたは 他の肢体たちに命を供給することができます。ある人々は救われてすぐに、祈り の集会で祈り始めます。彼らの祈りはとてもぎこちないかもしれませんが、他の 人たちがその祈りに触れる時、光と供給を受けます。しかし、これらの人たちが クリスチャンになってある期間がたつと、彼らの中の命の供給は少なくなってい きます。数年間クリスチャン生活を送って、彼らは多くの知識と教理を得ました が、命の供給が不足しているのです。命の供給は知識の問題ではなく、新鮮さの 問題です。命の供給を失うよりは、知識や教理が少ないほうがましです。わたし たちは、命を供給することができないことから救い出してくださるようにと主に 求めるべきです。また、わたしたちが真実な方法で主の御前に生きることができ るようにと祈るべきです。もしわたしたちが主の御前に生き、命に触れているな ら、わたしたちは他の人たちと接触する時はいつも、命をもって彼らを供給し、 彼らの足を洗うでしょう。彼らは命の新鮮さを受け、霊的に回復されるでしょう。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第18編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。