互いに足を洗い合う ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ13:14 それで、主であり先生であるわたしが、あなたがたの足を洗った のだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。(15節)わたしがあなた がたに行なったように、あなたがたも行なうようにと、わたしはあなたがたに模 範を与えたのである。 ピリピ1:7 わたしがあなたがたすべてについて、このように考えるのは当然で す。なぜなら、あなたがたはわたしを心にとめていて、わたしが監禁されている 時も、福音を弁明し立証している時も、あなたがたはみな、わたしの恵みに共に あずかる者であるからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― キリストは弟子たちの足を洗った後、また彼らに、「あなたがたも互いに足を洗 い合うべきである」と命じられました。これは、召会が足を洗う働きを継続する 必要があることを示しています。わたしたちは互いに足を洗い合わなければなり ません。 あなたには次のような経験はないでしょうか? ある日、あなたは自分に霊的な 活力が全くなくなったと感じ、意気消沈します。内側を調べてみても、特に弱さ や罪を見つけられませんでした。ただ疲れていて、活力がないと感じるだけです。 聖書を読んだり祈ったりすることも、あまりしたくありません。このような状況 の時、あなたは主を認識している兄弟に集会や家で会うかもしれません。彼に接 触するやいなや、活力が戻り、神に触れたとあなたは感じます。彼はあなたに命 を供給し、足を洗ったのです。命にひとたび触れれば活力は回復し、再びあなた は明るくされます。彼に会った時は気分が悪かったのですが、彼と話した後は 「ハレルヤ」と言い出します。これが互いに足を洗い合うことです。 クリスチャンが互いに助け合えることの中で、互いに足を洗い合うことほど尊い ことはなく、からだの肢体に命を供給することほど重要なことはありません。ク リスチャンが疲れ、弱って集会に来て、同じように疲れたままで帰るなら、その 集会は失敗です。毎回、集会に来る時は、命をもたらさなければなりません。そ うでなければ、わたしたちは集会に重荷を増加させるでしょう。他の兄弟姉妹が 命に触れられるように、わたしたちは命を携えて集会に来るべきです。人は命に 触れるやいなや、霊的な陰鬱さは消え去ります。人は輝き、新鮮になるでしょう。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第18編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。