至聖所に入ってとどまる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― へブル10:19 こういうわけで、兄弟たちよ、わたしたちはイエスの血によって、 大胆に至聖所へ入ります。 ガラテヤ5:25 もしわたしたちがその霊によって生きているならば、その霊によ って歩こうではありませんか。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 旧約の幕屋は、外庭、聖所、至聖所に分かれていました。至聖所の中には契約の 箱があり、その中に神は住まわれました。聖所の中には、供えのパン、金の燭台、 金の香壇がありました。外庭には、祭壇と洗盤がありました。至聖所と聖所との 間には、隔ての垂れ幕がありました。聖所と外庭との間には、とばりがありまし た。祭司とレビ人だけが外庭に入ることができ、祭司だけが聖所に入ることがで きました。最終的には、大祭司だけが一年に一度、血を携えて至聖所に入ること ができました。 新約では、神はご自身のしもべを通して語り、わたしたちが神の宮であること (1コリント3:16)を言い表されました。クリスチャン生活は、神の幕屋や神の宮 にたとえられます。外庭は本当に忙しい場所でした。何万ものイスラエル人がそ こでささげ物をし、多くのレビ人が何日も費やして多くの雄牛と羊をほふりまし た。外庭には朝から晩まで多くの人がいましたが、至聖所にはだれもいませんで した。(外庭のとばりは何度も引き上げることができ、多くの人が何度も入って 行くことができました。しかし、至聖所の垂れ幕はそこに掛けられたままであり、 だれも入って行くことができませんでした)。外庭は騒がしかったかもしれませ んが、至聖所は穏やかで静かなままでした。外庭はとても忙しかったかもしれま せんが、至聖所は何の影響も受けませんでした。これがクリスチャン生活です。 わたしたちは外側では数千数百の人と接触を持つかもしれませんが、内側では妨 げられないようにすべきです。わたしたちは外側では忙しいかもしれませんが、 霊の中では煩わされるべきではなく、内側では主との妨げられることのない交わ りを持つことができます。これが、わたしたち人の霊の中で安息と平安を持つこ との意味です。 クリスチャンは絶えず祈りの中に生きるべきです。これは、十分間祈ったり三十 分間祈ったりするという問題ではありません。また、仕事に行く時には終えるよ うな朝の短い祈りでもありません。わたしたちは主の御前に生きるのですから、 たとえ外側では忙しくても、主との交わりを維持しなければなりません。わたし たちは、祈りと聖書を読むための決まった時間を持つべきです。しかし、この時 間以外にも、わたしたちの内なる命は、主との交わりを持ち続けるべきです。で すから、もしわたしたちが至聖所の中で平安と安息の生活を持つなら、外側の事 柄はわたしたちに触れることができませんし、また環境もわたしたちを揺り動か すことはできません。わたしたちが至聖所の中で生きる時、神があらゆる事に浸 透するのを、わたしたちは見るでしょう。わたしたちは神との親密で絶え間のな い交わりを持ち、外面のいかなるものもそれを断ち切ることはできないのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第19編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。