イエスは「わたしはある」である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ18:3 ユダは一隊の兵卒と、祭司長たちやパリサイ人から遣わされた下役 たちを引き連れ、たいまつ、ともし火、武器を携えてそこにやって来た。(4節) イエスは、ご自分に臨もうとしているすべての事を知り、進み出て、「だれを捜 しているのか?」と彼らに言われた。(5節)彼らはイエスに、「ナザレ人イエス を」と言った。イエスは彼らに、「わたしである」と言われた。彼を裏切ろうと していたユダも、彼らと一緒に立っていた。(6節)イエスが「わたしである」と 彼らに言われた時、彼らは後ずさりして、地に倒れた。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 偽りの弟子であるユダは、二種類の人々、すなわち、政治的な者たちと宗教的な 者たちと共にやって来ました。兵卒たちは政治的な者たちであり、祭司長やパリ サイ人からの代理人たちは宗教的な者たちでした。宗教界は政治界と共に働いて、 命の主を殺そうとしました。しかしながら、彼らが主を見つけだしたのではあり ません。主が彼らの所に来られたのです。主が祈っておられた時に、兵卒たちが 主の所に来て主を捕らえたのではありません。そうではありません。イエスが彼 らの所に出て来られたのです。 彼らは「わたしである」というこの言葉に驚いたのです。それは「エホバ」とい う名の意味です。これは、彼らが逮捕しようとしてやって来たその方が、エホバ なる神であったことを示します。「エホバ」という名は、「わたしはある」を意 味します。主イエスは大いなる「わたしはある」です。第8章24節で主はユダヤ 人に、「あなたがたは、『わたしはある』を信じないなら、自分の罪の内に死ぬ」 と告げられました。言い換えれば、もし彼らが、イエスがエホバ、神ご自身であ ることを信じないなら、自分の罪のうちに死ぬ、ということです。ユダヤ人はこ れを聞きました。そして再びそれを聞いた時、彼らは恐れのあまり地に倒れたの です。 もし彼が進んで死のうとされなかったなら、だれも彼を捕らえることはできなか ったでしょう。彼がすべきことはただ、一言語ることであり、そうすれば彼の逮 捕者は死んでしまったでしょう。もし主が進んで捕らえられようとされなかった なら、彼らはどうして主を逮捕することができたでしょうか? これは、ヨハネ による福音書の目的が、主は命の主であることと、彼は進んで死に、ご自身を命 として解き放そうとしておられたのを示すことであるのを証明します。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ヨハネによる福音書(二)」(1996 年版)メッセージ第42編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。