祈りにおいて真実である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ11:5 ……あなたがたのうちのだれかに友人がいて、真夜中にその人の所 へ行き、こう言ったとする、『友よ、パンを三つ貸してください。(7節)その者 は家の中から答えて言うだろう、『煩わさないでもらいたい。もう戸は閉めた し、子供たちはわたしと一緒に床についている。起きてあなたに何もあげるわ けにはいかない』。(8節)わたしはあなたがたに言う。自分の友人だからという ことで、起きて何も与えなくても、その厚かましいしつこさのために、起きて 、必要なものを与えてくれるであろう。(10節)すべて求める者は受け、捜す者 は見いだし、門をたたく者には開かれるからである。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 祈りはメッセージではありません。祈りは演説ではありません。祈りはわたし たちが神の御前に行って求めることです。ですから、祈りの集会においてわた したちは、神の御前で、まるで神がそのことをご存じでないかのように、詳し く知らせたり、報告したり、いきさつを話して聞かせて、長たらしい言葉を並 べ立てる必要はありません。祈りとは、わたしたち自身に必要があり、わたし たち自身に弱さがあるので、祈りによって霊的な供給を得、霊的な力を得るこ とです。ですから、あなたの内側で必要をどれだけ感じているかが、真実な祈 りをどれだけすることができるかになります。もしあなたが必要を感じていな いのでしたら、あなたの祈りはむだな祈りになってしまいます。 必要がはっきりしていればいるほど、祈りは真実になります。主イエスは一つ のたとえを引用されました。ある人の家に友人が来たのに、パンがなかったの で、その人は別の友人の所に行ってパンを求めました。パンのない者の必要は はっきりしていますから、どうしてもと何度も求め続けます。その友人は、彼 の必要にしたがって彼に与えます。ですから、主イエスは言われました、「す べて求める者は受け、捜す者は見いだし、門をたたく者には開かれるからであ る」。もしその必要が切迫しているものであれば、よくよく求めさえすれば必 ず得られます。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉 は、ウオッチマン・ニー全集第48巻「初信者を成就するメッセージ(一)」(1999 年版)メッセージ第13編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。