十字架でないもの(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マルコ8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた、 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を否み、自分の十字架を負 い、わたしに従って来なさい」。 ガラテヤ2:20 わたしはキリストと共に十字架につけられました。生きている のはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるの です。そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わ たしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 神の子供たちの間で、ある人たちは確かに苦難を受けますが、真に十字架を負 っている人たちはあまり多くいません。彼らは苦しんでいる時、幾つかの異な る方法で自分自身を表現します。ある人は、自分はクリスチャンであるから、 苦難を受けることになると考えているかもしれません。外側では彼は何も言わ ず、真に十字架を負っている者のように見えますが、彼はひそかにつぶやいて います。苦難を受けた後、多くつぶやくそのような人たちは、依然として十字 架が何であるかを知らないのです。なぜなら、彼らは内側で苦い感覚で満たさ れているからです。彼らは苦みを混ぜたぶどう酒を必要とします。 ある人たちは、苦難を受ける時つぶやきません。つぶやきを口にしないばかり か、無言のつぶやきさえしません。しかし、彼らは涙を流します。わたしたち は認識しなければなりませんが、十字架とは、血が流され、体が犠牲としてさ さげられる場所です。十字架は、涙を流し、自己憐憫する場所ではありません 。自分自身を気の毒に思い、涙を流す者たちは、十字架を知らない者たちです 。涙を流すということは、自分が苦しむのを見るのは気が進まないということ です。十字架の下にいる者たちだけが涙を流します。十字架につけられている 者たちに、涙はありません。もしある人が、わずかな損失を受け、少しの苦痛 と苦難を耐え忍んだ後、傷を受けたと感じるなら、彼は依然として十字架が何 であるかを知らないのです。 もう一種類の人は、うぬぼれていい気になり、勝利者であるふりをする人です 。このような人も十字架につけられた人ではありません。なぜなら、この種の 反応は、人々の注意を引くためであるからです。彼はこう言っているかのよう です、「わたしは苦難を受けていますが、それでもなお詩歌を歌い、賛美をさ さげることができます。わたしは十字架を負っている者です」。彼の振る舞い の目的は、人々の賞賛を得ることです。これもまた苦みを混ぜたぶどう酒です 。これも十字架を負うことではありません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉 は、ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メ ッセージ第17編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。