十字架でないもの(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マルコ8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた、 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を否み、自分の十字架を負い、 わたしに従って来なさい。 ガラテヤ2:20 わたしはキリストと共に十字架につけられました。生きているの はもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです。 そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのた めにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 苦痛を和らげる何かを求めている人は、苦みを混ぜたぶどう酒を必要とする人は、 十字架を負う人ではありません。十字架を負っていると思っている神の子たちは 多くいます。しかし、彼らは実際は十字架を負ってはいません。十字架を負うこ とは、神以外の慰めも喜びも必要としません。しかし、多くの人は十字架を負う とき、隣の人がその事をすべて知っています。二階の人が十字架を負えば、階下 の人がその事を知ります。多くの人は十字架が来ると、彼らの顔つき、表情、声 が、「見てください! わたしはここで十字架を負っています」と人に語ってい るのです。わたしたちは知るべきですが、十字架の存在の知らせがもれるなら、 それは十字架ではないのです。その知らせがもれるとき、そこに十字架はありま せん。もれた知らせは、苦みを混ぜたぶどう酒です。人はわずかの苦難があって も、慰め、愛、同情を受けたがります。何と多くの人がそのようなものを渇望し ているかわからないほどですが、それは十字架ではないのです。神の子供たちの 間のとても大きな問題は、神が彼らの喜びではないということです。ですから、 彼らは神以外に喜びを求めます。神が彼らの心を満たせないので、神以外に慰め を求める必要があるのです。これは、苦みを混ぜたぶどう酒です。これは十字架 に属するものではありません。 神の子たちは試練に出会う時、三つの異なる反応を示します。ある人は、外側に 反応を示して、人に向かいます。また、ある人は内側に向かいます。ある人は自 分の感覚を抑制します。人に向かって反応する人は、人に対して怒ったり憎んだ りして、赦すことをしません。自分の内側の感覚に向かう人は、傷ついて、自分 自身を哀れみ、自分はこんなに主に従い、主と同じように大変苦しんでいるのだ と考えます。自分の感覚を抑制する人は、受動的になります。わたしたちは容易 に怒り、容易に自己憐憫に陥り、容易に受動的になるものです。神の子供たちの ある者は、受動的になることが勝利なのだと考えます。自分の感覚において受動 的である人も、苦みを混ぜたぶどう酒を望んでいるということを、彼らはほとん ど知らないのです。受動的であることは、傷つくことの別の表現です。人は内側 で失望しているので、受動的になるのです。人は期待し過ぎるために、受動的に なるのです。受動的であるとは、十字架がないことの証拠です。それは、その人 の感覚が強制的に抑圧されていることに過ぎません。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第17編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。