天幕の生活 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 創12:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして、「あなたの子孫に、わたし はこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のた めに、そこに祭壇を築いた。(8節)彼はそこからベテルの東にある山のほうに移 動して天幕を張った(新改訳)。 1ヨハネ2:15 世と世にあるものを愛してはいけません。だれでも世を愛するな ら、御父への愛は彼の中にありません。(16節)なぜなら、すべて世にあるもの、 すなわち肉の欲と目の欲と生活の虚栄とは、御父から出たものではなく、世から 出たものであるからです。(17節)世と世の欲は過ぎ去っていきます。しかし、神 のみこころを行なう者は永存するのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 実際にアブラハムは、ベテルの東のほうに移動する以前も天幕の生活をしていた のですが、神はそれを記述されませんでした。彼が祭壇を築くまでは、神の御言 葉は天幕を見せていません。天幕とは何でしょうか? 天幕は移動できるもので す。それはどこにも根を張らない生活です。祭壇を通して神はわたしたちを取り 扱われます。天幕を通して神はわたしたちの所有物を取り扱われます。祭壇でア ブラハムは彼のすべてを神にささげました。それ以後、アブラハムは衣服や持ち 物、すべての物をはぎ取られたでしょうか? いいえ! アブラハムは依然とし て牛や羊、その他の多くの物を所有していました。しかし、アブラハムは天幕に 住む者となりました。祭壇の上で焼き尽くされなかった物だけが天幕の中に置か れました。ここに一つの原則を見ます。わたしたちが持っているすべては祭壇の 上に置かれるべきです。しかし、それでも残されるものがあります。これらの物 はわたしたちが使うためです。しかしながら、それらはわたしたちのものでなく、 天幕の中に残されているのです。わたしたちが多くのものを神にささげる時、神 はそれらを受け取って何も残されません。しかし、神は祭壇にささげた物のうち 幾らかを、わたしたちが使うために残してくださいます。 アブラハムの生活は祭壇の生活でした。彼のひとり子でさえ祭壇にささげられる 日が来ました。しかし、神はイサクに何をなさったでしょうか? 神はイサクを 取り去りませんでした。あなたが祭壇の上に置いたものを、神は受け入れます。 神は、あなたが自分自身のために、自分自身の楽しみのために、自分自身の力に よって生きることを許されません。祭壇はあなたのすべてを要求しますが、祭壇 にささげられたすべてが焼かれるわけではありません。祭壇の上に置かれる多く のものはイサクのようです。神はそれらをあなたに戻されます。しかし、あなた の手にあるこれらの物は、もはやあなた自身のものとは見なされません。それら はただ天幕の中に置かれるのです。 ある人々は次のように尋ねます、「わたしがすべてを神にささげるなら、すべて の持ち物を売り、すべての金銭を処分しなければならないのでしょうか? もし 自分自身を神にささげるなら、どれだけのいすやテーブルを家に置き、衣装箱に どれだけの衣服を持ったらよいのでしょうか?」。ある人々はこのような質問で 真に悩まされています。しかし、わたしたちには二つの生活があることを覚えて おく必要があります。一つは神の御前での生活であり、もう一つはこの世での生 活です。神の御前での生活において、すべてのものは真に祭壇の上に置かれなけ ればなりません。しかし、この世での生活において、わたしたちには依然として 多くの物質的な必要があります。この世で生活している間、わたしたちには衣服、 食物、住居が必要です。もしそれらの必要がなければ、わたしたちはそれらを放 棄すべきです。それらを使うことはできますが、それらによって触れられてはな りません。わたしたちはそれらを持つことができますし、あるいは手放すことが できます。それらは与えられ、また取り去られてもよいのです。これが天幕の生 活です。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第16編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。