神の言が開かれると光を放つ(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 詩篇119:130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟り を与えます(新改訳)。 ヘブル4:12 なぜなら、神の言は生きていて活動しており、どんなもろ刃の剣よ りも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いと意図を 識別することができるからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 神の言があなたの内側に入ってくると、光を放つので、あなたの内側ははっきり するようになり、把握があるようになります。聖書は神の言ですが、単に書かれ た書物ではありません。あなたが神の言を読む時には、神の霊を必要とします。 神の霊がこの言をあなたの内側で生きたものに変えることが、必要になります。 生きた言だけが役に立ちます。この一句の言葉が、あなたの魂と霊とを切り離し ます。それは、一冊の本を読むことによって、このように振る舞うのは霊のもの であるのか、それとも魂のものであるのかを知るというようなものではありませ ん。あなたが本に書かれているとおりに振る舞ったとしても、その結果はやはり 魂に属するものです。しかし、もし神の言があなたの内側に入って光を放つなら、 魂と霊とを切り離し、関節と骨髄さえも見えるようになり、あなたはどのように 間違ったかを知るようになります。また何が正しいのかを内側で知ります。この ような人はもはや質問する必要がありません。なぜなら、彼の内側には光があり、 内側からわかるからです。 ある人は、「わたしという人は主のためであるのか、それとも自分のためである のか? この事は主の意志であるのか、あるいはわたし自身の意志であるのか?」 と問い続けています。確かに、最も区別しにくいのは、自分の意志であり、自分 の意図です。なぜなら、わたしたちの心の思いと意図は、たやすくわたしたち自 身を欺くからです。しかし、主の御言が入ってくると、わたしたちの心の思いと 意図をみな識別します。そしてすぐさまわたしたちに自分の有り様を見せ、あの 思いはよこしまであり、あの思考は実際的ではなく、あの思考は自分のためであ ることが見えてきます。また、あの意図は恐れから来たものであり、あの意図は 自分自身を守るためのものであったことが見えてきます。それは、わたしたちが 内側で見たものです。そしてわたしたちの内側はとてもはっきりしてきます。自 分で自分を分析しても、わたしたちは光を得ることはできません。もし何かを得 たとするなら、それは自分を欺いているだけなのです。わたしたちが自分を分析 すればするほど、ますます欺かれ、ますます神の言がわたしたちの内側に入って くるのを妨げます。もし神の言が内側に入ってきたのであれば、わたしたちは見 えたのであり、もはや問う必要さえなくなります。なぜなら、わたしたち自身の 心の思いと意図を、みなはっきりと見ることができたからです。兄弟姉妹よ、あ なたの内側に問題がある時、神の言によって照らしていただくのであれば、あな たは欺かれることはなくなります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第14編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。 *10月1日および2日分のeMannaにつきましては、英文eMannaが9月26日および27 日と同じものが配信されておりましたので、重複してしまいますが、日文eManna も9月26日および27日と同じものを配信させていただきます。ご了承ください。