神の言が開かれると光を放つ(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヘブル4:12 なぜなら、神の言は生きていて活動しており、どんなもろ刃の剣よ りも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いと意図を 識別することができるからです。 詩篇119:130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟り を与えます。(新改訳)。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 多くのクリスチャンは、非常に多くの問題を持っています。もしそれらの問題が 単に外面的なものであれば、それほど重要ではありません。ところが、これらの 問題の多くは、人の内側の暗やみや、霊的にはっきりしていないことを、指し示 しています。ですから、軽々しく扱うべきではありません。霊的な前進のために は、ある状況を通過することが必要であることは認めますが、クリスチャンがず っと暗やみの中にいたり、ずっとはっきりしないままであってはなりません。神 は、わたしたちが絶えず問題を持ち続けることを願われません。またわたしたち が暗やみの中に居続けることも願われません。それでは、わたしたちはどうすれ ば霊的にはっきりするのでしょうか? 神の言葉がどのようにわたしたちに告げ ているかを見てみましょう。 ヘブル人への手紙第4章12節が言っているのは、神の言葉が人の内側に入ってく れば、霊(主と一である)から出たものが何であるか、魂(自己の命と関係がある) から出たものが何であるかを、識別することができるということです。この識別 するということは、自分で内側に向かって聞くことによって知ることのできるも のではありません。自分で内側に向かって聞くなら、それはただあなたを混乱さ せるだけです。わたしたちが内側をのぞけばのぞくほど、自分自身に向かって問 えば問うほど、ますます問題を持ち、ますます暗くなっていきます。一つの問題 が十の問題を生み出し、十の問題が百の問題を生み出し、限りなく問題が生じて きます。もし神の言葉がわたしたちの内側に入ってくるなら、根本的に問う必要 がなくなります。問う必要がなくなるだけではなく、必ずはっきりしてきます。 事実、必ずとてもはっきりするのです。 例えば、今日あなたが路上で一人の人に出会い、彼に幾らかの話をするとします。 言葉は正しいかもしれませんが、語った後、あなたの内側の感覚は心地良くあり ません。言葉は適切で、話す意図も正しかったのですが、内側で良くなかったと 感じるのです。一時間後に、あなたはまた別の兄弟に出会い、多くの談話をしま す。それは彼を助ける言葉です。今回あなたは内側で満足を覚え、負担を降ろし、 神に仕えたと感じます。これらの二つの場面で語った言葉にはあまり大した違い はなかったのですが、内側の感覚は大きく違っています。この区別は内側でとて もはっきりしていて、あの時は間違っており、この時は間違っていなかったと、 あなたに告げています。この二つの場面で語られた言葉は、表面上は同じようで すが、あなたの内側では区別があります。神の言葉がわたしたちの内側にあるな ら、何が霊からで、何が魂からなのかを、わたしたちは内側において知ることが できます。いったんわたしたちがこのような内側の認識を持つなら、問題はなく なります。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第14編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。