神の現れは完全な献身をもたらす(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ローマ12:1 兄弟たちよ、こういうわけで、わたしは神の慈しみを通して、あな たがたに勧めます。あなたがたの体を、神に喜ばれる、聖なる、生きた供え物と してささげなさい。それが、あなたがたの理にかなった奉仕です。 2コリント5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちの押し迫っているからで す。そこでこう判断しました。一人の方がすべての人のために死なれたからには、 すべての人が死んだのです。(15節)そして、彼がすべてのために死なれたのは、 生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼らのために死んで復活させられ た方に生きるためです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 神はアブラハムに現れました。それでアブラハムは祭壇を築きました。この祭壇 は、罪のためのささげ物のためにあるのでなく、全焼のささげ物のためでした。 罪のためのささげ物は贖いのためですが、全焼のささげ物は神に自分自身をささ げ物とします。この祭壇は、わたしたちの身代わりになられた主イエスの死を指 しているのではありません。それは神に自分自身をささげ物とすることを指して います。それはローマ人への手紙第12章1節で語られた祭壇でした。神の慈しみ は主イエスをわたしたちのために死なせました。神の慈しみは十字架を備え、そ の十字架上でわたしたちは彼と共に死に、また十字架上で悪魔は対処されました。 神の慈しみのゆえに、わたしたちは内に神の命を持っています。神の慈しみのゆ えに、神はわたしたちを栄光の中へともたらされます。神がわたしたちを生きた 供え物としてささげるように勧めておられるのは、神の慈しみに基づいているの です。 全焼のささげ物について覚えておくべきことがあります。持ち物の豊かな人は雄 牛をささげることができます。そんなに豊かでない人は羊をささげることができ ます。しかし、羊をささげることもできない人は、山ばとや家ばとをささげるこ とができました(レビ1:3、10、14)。しかし、雄牛であれ、羊であれ、山ばと であれ、家ばとであれ、ささげる人は全体をささげなければなりませんでした。 半分の雄牛、半分の羊をささげることはできませんでした。神はあらゆるものの 全体を欲しておられるのです。神は半分を欲しておられるのではありません。神 は不完全な献身を受け入れられません。 全焼のささげ物が祭壇の上に置かれた目的は何でしょうか? それは完全に焼か れるためでした。わたしたちの多くは、自分を神にささげたのは神のためにあれ これ行なうためであると思っていますが、神がわたしたちに求めておられるのは 焼くことです。神は、神のために畑を耕す雄牛を必要とされません。神は、祭壇 の上で焼かれる雄牛を欲しておられるのです。神はわたしたちの働きでなく、わ たしたち自身を求めておられるのです。神は、わたしたちが自分自身を神にささ げて、神のために焼かれることを望まれます。祭壇は、神のために何事かを行な うことを象徴するのでなく、神のために生きることを象徴します。祭壇は、多忙 な活動を持つことではなく、神のために生活することを意味します。どのような 活動や働きも祭壇に置き換わることはできません。祭壇は、完全に神のための生 活です。新約のささげ物は、完全に焼かれた旧約のささげ物のようではなく、ロ ーマ人への手紙第12章で言われているように生きた供え物として体をささげるこ とです。わたしたちは日々、祭壇の上で焼かれますが、日々、生きています。わ たしたちは生きていますが、焼き尽くされます。これが新約のささげ物です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第16編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。