わたしたちはぶどうの枝であることを見る ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ15:1 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫である。 (4節)わたしの中に住んでいなさい。そうすれば、わたしもあなたがたの中に住 む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができ ないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはでき ない。(5節)わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわた しの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実 を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 真に住むことは、あなたが枝であるという明確なビジョン、それをはっきりと見 ることにかかっています。いったん自分が枝であることを見るなら、ぶどうの木 から離れ去ることは難しいでしょう。あなたはぶどうの木にとどまっていたいと 願うでしょう。このとどまっているのが、住むことです。わたしたちは、「主よ、 わたしが枝の一つであることをはっきりと見せてください」と祈る必要がありま す。ある日、主があなたに見せてくださると、わたしは信じます。あなたは、自 分が枝の一つであることを見て、「主を賛美します。わたしは枝の一つです」と 言うでしょう。こうして、あなたは彼の中に住むでしょう。 あなたが彼の中に住んでいる限り、彼はあなたの中に住まわれます。彼がわたし たちの中に住まわれることは、わたしたちが彼の中に住むことにかかっています。 わたしたちが住むことが、彼の住まわれることの条件です。しかし、彼がわたし たちの中に住まわれることは、わたしたちが彼の中に住むことの条件ではありま せん。彼には何の条件もありませんが、わたしたちの側にはあります。なぜなら、 わたしたちはあまりにも動揺するので、条件が必要であるからです。もしわたし たちが彼の中に住まないなら、彼はわたしたちの中に住むことができません。彼 は変わらないのですが、わたしたちには多くの変化があります。わたしたちは今 日、彼の中に住んでいて、明日、彼から逃げ去るかもしれません。ですから、彼 がわたしたちの中に住まわれることは、わたしが彼の中に住むことにかかってい るのです。 「このことは、わたしたちの日ごとのキリストの臨在の経験と享受に関係があり ます。主をひとたび受け入れたら、彼が決してわたしたちを離れないということ を、わたしたちがたとえ知っていたとしてもです」。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ヨハネによる福音書(二)」(1996 年版)メッセージ第33編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。