一つ心で共に祈る ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ18:19 また、まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたのうち の二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致するなら、それは天におられるわ たしの父によって成就される。 使徒1:14 ……一つ心でひたすら祈り続けていた。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― わたしたちは、個人の祈りと集会の祈りとの違いにも注意を払わなければなりま せん。あなたが個人で祈る時には、ただあなた個人の負担に注意を払えばそれで 足ります。しかし、教会の集会での祈りでは、その集会の負担にも注意を払うべ きです。単にあなた個人の負担だけに注意を払うべきではありません。ですから わたしたちは祈りの集会の中で、集会の感覚を感じ取るように学ばなければなり ません。ある事は、一度祈ればもう十分です。多く祈る必要はありません。なぜ なら、集会はそのことに対してはそれ以上の負担がないからです。しかしある事 は、一度祈っただけではまだ不十分であり、何度も祈る必要があります。一つの 負担がまだ下ろされていなければ、あなたは別の事のために祈ることはできませ ん。負担が下ろされた後はじめて、題目を変えることができます。そして主から 別の負担をいただいて祈ることができます。 わたしたちは祈りの集会の中で、一人の人がある事のために祈り、続けて二人、 三人、五人とみんなが同じ事のために祈ることを学ぶべきです。一人の人が自分 で祈ることができ、五人の人たちが自分で祈ることができたとしても、彼らが一 緒に集まる時、一つ心で祈ることができないかもしれません。一つ心になって祈 ることは、学ばなければならないものです。一人の人が自分で祈ることができた としても、また五人の人が自分で祈ることができたとしても、一緒に集まる時に は、また一つの新しい祈りを学ぶ必要があるのです。彼らは、どのように一つ心 になって祈るかを学ぶ必要があります。集会での祈りは、学ぶべきものであって、 最初からできるものではありません。 もし二人の人が心を合わせて祈るのであれば、神は必ずそれをかなえてください ます(マタイ18:19)。これは小さなことではありません。わたしたちは他の人の 感じることを感じるように学ぶべきであり、教会の祈りとは何であるかを感じる ことを学ぶべきです。また一つの祈りの負担が下ろされたかどうかを感じるよう に学ぶべきです。そうしてこそ、わたしたちはどのようにして集会の中で祈りの 務めを果たすことができるかを、知るようになるのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第11編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。