宇宙的なぶどうの木の一部分である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫である。 (5節)わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中 に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。 (8節)あなたがたが多くの実を結ぶことで、わたしの父は栄光を受けられ、こう してあなたがたはわたしの弟子となる。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― この啓示の中で、教会(信者)はぶどうの木の枝にたとえられています。ぶどう の木の枝は、ぶどうの木の体です。もしぶどうの木から枝を取り去るなら、ぶど うの木には体がないでしょう。枝がなければ、ぶどうの木には根と幹のほか何も 残っていません。しかし今日、この宇宙的なぶどうの木には多くの枝があり、こ れらの枝は彼の枝分かれです。主イエスは地上におられた時、ある場所に住んで いた小さな人にすぎませんでした。しかし今日、彼の枝分かれを見てください。 彼はニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、東京、台北、全世界にわたってご 自身の一部分を持っておられます。主を賛美します。わたしたちは全地にこのぶ どうの木の枝分かれを見ます! これは組織ではありません。これは命と多くの 器官、有機的体系、その中で成長している有機的要素を持つ有機体です。 御父の栄光を現す有機体として、ぶどうの木と枝は神聖な命の豊富を表現します。 ぶどうの木がぶどうの房を実らせる時が、神聖な命の豊富が表現される時です。 実がなければ、ぶどうの木の本質、実質、命は隠され、覆われ、閉じこめられて いるでしょう。しかしながら、ぶどうの木の内なる命の豊富は、実の房の中で表 現されます。再び言いますが、このように内なる命を表現することは、ぶどうの 木の内側から神聖な実質を解き放すことです。これが御父の栄光を現すことです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ヨハネによる福音書(二)」(1996 年版)メッセージ第33編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。