わたしたちの貧しさを知るという祝福(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ5:3 「霊の中で貧しい人たちは幸いである。天の王国は彼らのものだか らである。 ヤコブ4:6 彼はより大きな恵みを与えられます。ですからそれは、「神は高ぶ る者を退け、へりくだる者に恵みを与えられる」と言っています。 黙示録3:17 なぜならあなたは、自分は富んでいる、富める者となった、何の 乏しいこともないと言っているが、実は自分が悩んでいて、みじめで、貧しく、 盲目で、裸であることを知らないからである。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 貧しくても高ぶらなければ、貧しいことは妨げではありません。しかし、貧しい のに高ぶってしまう人は、どうすることもできません。貧しいだけなら、それほ ど問題にならないのですが、ラオデキヤでは問題になりました。なぜなら、彼ら は貧しいのに高ぶっており、貧しいのに自分は富んでいると思っていたからです。 霊的な事柄においては、貧しい人ほどよく高ぶり、富んでいる人ほどかえって高 ぶりません。とても残念なことに、多くの神の子たちはただ一つのことのゆえに、 ずっと堂々巡りをしており、進歩がありません。それは、自分にはあると思って いることが、その人を害しているからです。 ラオデキヤに在る教会は何か持っていたでしょうか? 持っていることは持って いましたが、自分が持っていると思っていたそのことは、彼らにとって益になり ませんでした。もし本当に持っていたのであれば、彼らは歓喜したはずです。し かし彼らは、みじめな者、哀れむべき者でした。彼らの様子は、持っている人ら しくありませんでした。彼らのみじめな様子、哀れむべき様子は、彼らが貧しか ったことを物語っています。 貧しさは必ず盲目とつながっています。霊的事柄の上で貧しい人は、見えない人 です。見えない人がかえって、自分を富んでいると思っています。十字架を見た ことがないのに、自分は十字架を知っていると思っており、王国を見たことがな いのに、自分は王国を知っていると思っているのです。キリストのからだを見た ことのない人が、自分は教会を知っていると思っているのです。すべて自分に有 ると思っている人は、みな貧しい人です。わたしたちが本当に見たなら、「自分 は富んでいる」と誇ることができなくなります。人の目が開かれる時、自分が裸 であることを見ます。愚かな人だけが、自分は有ると誇るのです。貧しいのに、 自分が貧しいということを見ていない人が、ラオデキヤの人です。これはわたし たちへの警告です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第10編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。