わたしたちの貧しさを知るという祝福(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 黙示録3:14 ラオデキヤに在る教会の使者に書き送りなさい。『アーメンである 方、忠信で真実な証人、神の創造の初めである方が、こう言われる。(17節)なぜ ならあなたは、自分は富んでいる、富める者となった、何の乏しいこともないと 言っているが、実は自分が悩んでいて、みじめで、貧しく、盲目で、裸であるこ とを知らないからである。(18節)わたしはあなたに勧める。あなたが富むために、 火で精練された金をわたしから買いなさい。またあなたがまとって裸の恥を現さ ないために、白い衣を買いなさい。また見えるようになるために、目に塗る目薬 を買いなさい。(19節)わたしはすべて自分の愛する者を、しかったり、訓練した りする。だから熱心になりなさい。そして悔い改めなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 神の子供たちのうちにある問題の一つは、ラオデキヤの態度と心です。それは、 実際は貧しいのに、自分は富んでいると思っていることです。 霊的なものがその人に有るかどうかという問題は決定しやすいのですが、その人 が貧しいか富んでいるかは、容易に決定しがたいものです。何もない人は容易に 神を見ることができますが、少しばかり持っている人が神を見るのは難しいこと です。多くの人は神の御前では実に何もないのですが、多くの時、彼らは神に出 会います。しかし、一番問題なのは、少しばかり持っている人、すなわち自分に はこれも少しわかるし、あれも少しわかると思っている人です。しかし、彼は本 当に知っているのでしょうか? 本当にわかっているのでしょうか? そうでは ありません。彼は多く知っていると言うのですが、その歩みは一歩も動いておら ず、一歩も進んでいません。彼は実際には貧しい人なのです。 貧しい人の最大の問題は、自分自身の貧しさを認めるのがとても難しいというこ とです。無い人は、自分が何も持っていないことを容易に認めます。無い人は、 有れば有る、無ければ無いと、とても単純ではっきりしています。しかし、貧し いということは、比較した上でのことです。霊的な事柄においても、無い人に対 しては、神が対処する道を持たれます。しかし、貧しい人にとっては、その少し のものが彼の妨げとなって、自分には有ると思わせ、自己満足に陥らせ、高ぶら せてしまうのです。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第10編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。