御子と御父は一である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、実際であり、命であ る。わたしを通してでなければ、だれも父に来ることはない。(7節)あなたがわ たしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたはずである。今からはあなた がたは彼を知る。そしてすでに彼を見たのである」。(8節)ピリポが彼に言った、 「主よ、わたしたちに父を見せてください。そうすれば、わたしたちは満足しま す」。(9節)イエスは彼に言われた、「ピリポよ、わたしがこんなに長くあなた がたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのか? わたしを見た者 は父を見たのである。どうしてあなたは、『わたしたちに父を見せてください』 と言うのか? 10:30 わたし(イエス)と父は一である。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 今この瞬間にさえ至るまで、ここの主の言葉は依然として奥義です。それは何を 意味するのでしょうか? 一方で、それは御父と御子が一であることを、もう一 方で、彼らはやはり二であることを意味します。もしあなたが、どうしてこのよ うなことがあり得るのかとわたしに尋ねるなら、わたしは次のように言うでしょ う、「わたしにはわかりません。ただわたしがわかっているのは、一方で御父と 御子が一であること、あなたがその一方を見るなら、もう一方も見るということ です。なぜなら、その二者は一であるからです。御父は御子の中におられます。 あなたが御子を見るなら、確かに御父を見ます。しかし、もう一方で、彼らはや はり二です」。これが三一の神の奥義です。 もう一度わたしは言いますが、わたしたちはこの事柄を十分に説明することはで きません。なぜなら、わたしたちの限られた知性では、どのようにして彼ら二者 が一であることができるのか、理解することは非常に難しいからです。わたした ちの限られた理解力では、御子は御子であり、御父は御父であって、二者は互い にはっきりと分かれています。しかし、主はわたしたちに、御子と御父は一であ ることをはっきりと告げておられます。ここでわたしは強く言いますが、主は決 して、彼と御父が二であるとは言っておられないのです。わたしたちは自分の憶 測にしたがってではなく、主のはっきりとした明確な言葉にしたがって、三一の 奥義を受け入れなければなりません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ヨハネによる福音書(二)」(1996 年版)メッセージ第31編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。