主の行くことは、主の来ることである ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ14:6 わたしが行って、あなたがたのために場所を用意したなら、再び来 て、あなたがたをわたし自身に迎える。わたしがいる所にあなたがたもいるよう になるためである。(18節)わたしは、あなたがたをみなしごのままにはしておか ない。わたしはあなたがたに来る。(28節)『わたしは行く。そしてあなたがたに 来る』と、わたしがあなたがたに言ったのを、あなたがたは聞いた。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― ここの時制は、英語ではとても奇妙です。その意味は、主の行くことは主の来る ことであったこと、主は行くことによって来ていたということです。主の行くこ とは、主の出発ではなく、実は主の来ることのもう一つの段階でした。主の意図 は、彼の弟子たちの中へ入ることでした。彼は最初、肉体の中で来て、彼の弟子 たちの間におられましたが、肉体にあった時には、彼らの中へ入ることはできま せんでした。彼はさらに進んで、死と復活の段階を経過して、肉体からその霊へ と変ぼうしなければなりませんでした。それは、彼が彼らの中へ入って来て、彼 らの中に住まわれるためでした。 ある物語を例証として使いましょう。ある日、わたしは巨大なすいかを買いまし た。わたしがそれを買って家に帰り、食卓の上に置くと、わたしの子供たちはみ な大喜びでした。それからわたしたちはこのすいかを台所へ持って行きました。 子供たちの一人が、「すいかを持って行かないで!」と叫びました。わたしは彼 らに静かにするように言いました。というのは、そのすいかは手順を経て、切ら れ、薄切りにされなければならなかったからです。二、三分後に、その大きなす いかは薄く切られて、子供たちの所に戻って来ました。子供たちはみな喜びまし た。一時間とたたないうちに、すいかは全部なくなってしまいました。どこへ行 ったのでしょうか? 子供たちの中へ入ったのです。 イエスはそのすいかのようでした。弟子たちはどうして彼を飲み込むことができ たでしょうか? それは不可能でした。彼は手順を経て、小間切れにされなけれ ばなりませんでした。彼は十字架に行き、そこで彼は切られ、手順を経て、薄切 りにされただけでなく、飲むのによい「すいかジュース」とされました。今やイ エスは、もはや単なるすいかではなく、ジュースでもあります。イエスを飲む者 はだれでも、イエスを自分の中に取り入れるのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ヨハネによる福音書(二)」(1996 年版)メッセージ第30編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。