いちじくの葉は皮の衣に相対する(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ガラテヤ2:16 それでも、人が義とされるのは、律法の行ないによるのではなく、 イエス・キリストにある信仰を通してであることを知って、わたしたちもキリス ト・イエスを信じたのです。それは、律法の行ないによってではなく、キリスト にある信仰によって義とされるためです。なぜなら律法の行ないによっては、い かなる肉も義とされないからです。 2コリント5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに押し迫っているからで す。そこでこう判断しました。一人の方がすべての人のために死なれたからには、 すべての人が死んだのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 皮の衣は、救い主の死だけでなく、罪人の死をも象徴します。コリント人への第 二の手紙第5章14節ははっきりと述べています、「一人の方がすべての人のため に死なれたからには、すべての人が死んだのです」。その個所は、「一人の方が すべての人のために死なれたからには、すべての人が死ぬ必要はありません」と は言っておりません。その節は、「一人の方がすべての人のために死なれたから には、すべての人が死んだのです」と言っています。神はアダムとエバのために 皮の衣を造っておられた時、二人に対して死の宣告を下しておられたのです。 過越の時には、小羊の血が二本の門柱とかもいに塗られました。神は言われまし た、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」(出エジプト 12:13)。神はアダムとエバに皮の衣を着せることにより、救いというものは、 救い主の死を通しての罪の赦しを要求するだけでなく、罪人の死をも要求するこ とを示されました。 救いは、わたしたちの罪の問題の解決を含むだけでなく、同時に、わたしたちが 一人の人として終わってしまうことをも含んでいます。神は罪だけでなく、わた したちのパースンをも対処されました。アダムとエバは、善悪の知識の木の実を 食べました。これは罪でした。彼らはいちじくの葉で腰のおおいを作りました。 これは彼らの良い働きでした。わたしたちが認識しなければならないことは、神 はその木の実を食べることを拒絶されるだけでなく、腰のおおいを造ることをも 拒絶されるということです。人が罪を犯すなら、神を怒らせてしまいます。人が 自分の努力によって良い働きをしたとしても、やはり神を怒らせてしまいます。 人の必要は、血だけでなく死でもあります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第8編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。