わたしたちを極みまで愛される ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ13:1 過越の祭りの前、イエスは、この世を去って父へと至る時が来たこ とを知り、世にいるご自分の者たちを愛し、極みまで愛された。(3節)イエスは 父がすべてをご自分の手に与えられたこと、またご自分が神から来て、神に行こ うとしていることを知って、(4節)晩餐の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬ ぐいを取って、腰に巻かれた。(5節)それから、たらいに水を注ぎ入れ、弟子た ちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― すでに見てきたように、この福音書で述べられているすべての事は、さらに深く て霊的な事を示すしるしです。ですから、足を洗うことも、さらに深くて霊的な 事を象徴するしるしです。 1節は、主が「世にいるご自分の者たちを愛し、極みまで愛された」と言います。 この愛のゆえに、主は弟子たちの足を洗われました。ですから、足を洗うことは、 愛の事柄、極みに至るまでの愛の事柄です。これがなければ、わたしたちに対す る主の愛は極みまでのものではなく、わたしたちの必要に合わないものであった でしょう。これは足を洗うことの重要性を示しています。 御父は弟子たちを与えられ、主は神を彼らの中へともたらされましたが、今や彼 は彼らを離れようとしておられました。彼が神から来て、神を彼らの中へもたら されたことによって、弟子たちと彼の中の神との間に関係が存在するようになり ました。今や彼は彼らを離れようとしておられました。彼が彼らを離れられた後、 弟子たちと神との間のこの関係は、どのようにして維持されることができるので しょうか? それは足を洗うことによって維持されるはずです。足を洗うことは、 神と人との間の関係の交わりを妨げるすべての汚れを足から洗い落とすことです。 そうすることで、主は彼の弟子たちに、彼の中での神との関係を維持する方法を 見せられたのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ヨハネによる福音書(二)」(1996 年版)メッセージ第27編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。