見せてしまうという誘惑に打ち勝つ ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― イザヤ39:1 そのころ、バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは、 使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。彼が病気だったが、元気にな った、ということを聞いたからである。(2節)ヒゼキヤはそれらを喜び、宝庫、 銀、金、香料、高価な油、いっさいの武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼 らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一 つもなかった。(新改訳) ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― イザヤ書第39章には、バビロンの王がヒゼキヤの病気が治ったことを聞いた時、 手紙と贈り物を持たせて使者をヒゼキヤに遣わしたとあります。ヒゼキヤは神の 恵みにあずかったのですが、神の恵みを見せてしまうという試みに耐えられなか ったのです。彼は奇跡的に病をいやされたところでしたので、高ぶってしまい、 この世で自分のようなすばらしい経験をした者はほとんどいないと思ったに違い ありません。 得意の絶頂にあったヒゼキヤは、バビロンの使者に自分の宝物をすべて見せてし まいました。これは彼が十字架の対処を受けていなかったことを意味します。彼 の天然の命は対処されていません。彼のすべての根が暴露されたことは明らかで した。彼の知っていることや持っているものは、バビロン人にも知られました。 それでイザヤは彼に言いました、「万軍の主のことばを聞きなさい。見よ。あな たの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バ ビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。」 (39:5-6)。わたしたちが人の前に見せびらかす物は、その分だけわたしたちの損 失になるのです。 ああ、自分の経験をしまっておくことのできない人が何と多いことでしょう。彼 らは心の喜びをしまっておけません。これは、他の人に宝を見せてしまったヒゼ キヤのようです。ある時、一人の兄弟が言いました、「多くの兄弟は、病気にな って治ると、証しをします。できればわたしも一度病気になり――と言っても死 ぬようなものではなく――神がわたしをいやしてくださればよいのですが。そう すれば、次の証しの集会で証しをすることができます」。彼の動機は、証しをす ることができるようになるということです。彼は、語る材料を得るために経験を 求めたのです。ああ、このような浅薄な生活によって、神の子たちは多大な損失 を被るのです。それは霊的成長の可能性をなくしてしまいます。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第7編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。