油塗りはからだのためである ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 詩篇133:1 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわ せ、なんという楽しさであろう。(2節)それは頭の上にそそがれたとうとい油の ようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。 (新改訳) 2コリント1:21 しかし、わたしたちをあなたがたと共に、キリストへと堅く結 び付けて、わたしたちに油を塗られた方は神です。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― わたしたちはもう一つの事に注意しなければなりません。油塗りは、単に個人の ものではなく、個人として経験するものでもなく、からだのためにあるというこ とです。油はアロンのこうべに注がれて、そのひげに流れ、その衣のすそにまで 流れ下りました。このような状態であってこそ、それがいかに麗しく楽しいかと いうことがわかります。ですからわたしたちは、ただわたしたちの内側での油塗 りの教えを求めるだけでなく、キリストのからだの中での油塗りの教えをも求め るべきです。わたしたちは、わたしたちの中にある油塗りの導きを受けるだけで はなく、キリストのからだの中にある油塗りの導きをも受けるべきです。多くの 事を、主は案配し、導いてくださいます。ですから、あなたは油塗りに逆らって 行動するべきではありません。 ここで一つの例証を挙げましょう。一人の兄弟が、ある集会を導くはずになって いました。ところが、彼の内側は空っぽで言葉がなく、そのため他の兄弟に代わ りに語ってくれるように頼みました。集会に行く途中、語るように依頼された兄 弟は、自分は集会で語る時に証しをすべきだと感じました。彼は証しのようなも のはあまり好きではないのですが、この時は、内なる油塗りが証しするようにと 感じさせたのです。折よく、二人の人が、今までどれだけ話を聞いてもよくわか らなくて、長い間、集会に来ていなかったのですが、その夜に限って友人に連れ られてやって来ていました。そこで、何人かの兄弟たちはその二人のために、神 が適当な言葉を与えてくださるようにと祈っていたのです。その兄弟の証しは、 ちょうど彼ら二人が必要としていたものになりました。これが、油塗りの内なる 導きであり、また集会の中での油塗りの働きでもあります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第6編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。